審査員はみんな萩本欽一に怒っていた
「『スタ誕』の司会は、辞めたいって、毎日思ってたの。でも、ただ辞めたいと思っているのはイヤだから、自分のやりたいようにやって、怒られたら“ゴメンナサイ”と言って辞めるのがいちばんスカッとするでしょ」
実は萩本欽一は、所属事務所にも司会の仕事は取ってこないようにと申し入れていたほど、司会はやりたくなかった。
「55号のコントって、ひとつのことにツッコミを入れたらそこで止まっちゃうから、番組を進行していかなきゃいけない司会はできないの」
だが、しぶしぶ引き受けた『スタ誕』の司会。スカッと辞めるためにやったのが、客席から一般人を舞台に上げてイジるコーナーだった。
思惑どおり番組のプロデューサーは激怒した。「すみません、責任をとって今週で辞めさせてもらいます」という萩本。だが、プロデューサーはうろたえこそしたが、彼を辞めさせることはしなかった。
「なんであんなことをしたかというと、『スタ誕』をとにかく楽しい番組にして、数字がとれれば見る人も増えて、スターが出てくるはずだと思ったわけ。面白いことでは一歩も引かないぞという覚悟があったからね」
この思惑も当たり、番組は数字を伸ばしていったのだったが、お客をイジったのには別な理由もあったのだった。
「面白くなかったの。だって出場者は真剣に歌手になりたくて来ている子たちですよ。その子たちを笑いに引き込んだらかわいそうだし、あの子たちにさせるんじゃなくて、それに合った子たちにさせるのがいいんじゃないかって。悪気はなかったんですよ」
萩本の優しさがうかがえる。
素人が活躍するそのコーナーが人気を呼んで番組はますます好調となっていったのだが、誰もが萩本を歓迎していたわけではなかった。
「番組が人気になって5年くらいしてから聞いたんだけど、驚いたね。審査員の先生方はみんな怒っていたって。ボクのコーナーが始まると、先生方は席を立って控室に行っちゃうの。審査員席で見てたらボクがやりづらいだろうから、気をきかせてくれてるんだなと思ってたんだけど、でもそうじゃなかったと聞いてビックリしたよ」
何も知らないまま萩本のコーナーは爆走を続けていったのだが、後年になって両者の間に雪解けが訪れることに。
審査員の1人だった作曲家の三木たかしが萩本に、「あんなことをして、俺は人間的にダメなやつだ。もう1度、人間の修行してくる」と言い、番組の企画者でもあった阿久悠は、「まいった、まいった。欽ちゃんはエライ。俺たちがあんなにひどいことをしたのに、まっしぐらでやってた。負けたよ」。
そう言われた萩本は、「阿久さんには惚れましたが、でも、いちばん偉いのはプロデューサーとディレクターだね」とスタッフの妙技に舌を巻く。
プロデューサーたちは審査員には「萩本はとんでもない。すぐに降ろしますから大丈夫です」と言い、萩本には、「あのコーナーは面白い。みんな好きだと言ってます。どんどんやってください」と言っていたという。
「最初からハッピーなんてありえない。そういう苦労やつらいことがあって、それが終わってハッピーになる。とんでもない大騒ぎがあったとしても、そこに嫌いなヤツがいなくて、イヤなことが全部なくなって、その番組がヒットするんです。イヤなことがいっぱいあっても嫌がらずにそれを乗り越えて、苦労もつらさも意地悪も後で恩人になって、誰も去る人がいなかった。それをうまく切り抜けるのが、できるプロデューサーだね」
萩本が『スタ誕』の司会をやっていて、いちばんつらかったこと、それは……。
「合格者が出なかったり、プロダクションのプラカードが上がらなかったときに、どうやって慰めたらいいか悩んだ。わざとらしいのもダメだし、“残念ね”とひと言じゃ冷たいし、いい言葉が浮かばなくて毎日、心苦しかった」
そんな苦しい思いが半年ほど続いたある日、ふと浮かんだのが、
「バンザ~イ、ナシよ」
だった。
「あれでボクの中の不愉快が一気に消えて、番組に対するイヤがなくなりました」
イヤでしょうがなくて、辞めたいと思っていた『スタ誕』から、萩本は多くのことを得ることができたという。
「素人が面白いということ。それまで苦手だった歌手の人たちとお話ができるようになったこと。レコード会社の人と知り合えたこと。それがすべて次につながった。だからイヤなことには運がある。それをイヤだと思わずに一生懸命やって、好きになったときに次の大きな番組が待っていた。『スタ誕』からはたくさん人生を教えてもらい、たくさん財産をもらい、成長させてもらいました」
〈解説〉『スター誕生!』とは?
1971(昭和46)年、新しいタイプのオーディション番組が始まった。当時30代で、放送作家・作詞家として頭角を現していた阿久悠が「本格的な歌手を生み出したい」と企画した『スター誕生!』(日本テレビ系)。審査員には阿久をはじめ、都倉俊一、森田公一、小林亜星、ジェームス三木、服部克久、かまやつひろしなど、大物がズラリ。司会は『コント55号』で人気絶頂だった萩本欽一が抜擢され約9年間、番組の顔を務めた。2代目はタモリと谷隼人、3代目には坂本九と『スタ誕』からデビューした石野真子が、4代目には横山やすしと西川きよしが起用された。
芸能界が最も輝いていた時代に、新人歌手の登竜門ながら、その中心的な役割も担う番組だった。素人が参加することで、テレビと視聴者の距離を縮めた。ハガキの応募総数は200万枚以上。予選参加者は約60万組。テレビに出演したのは約4000人。デビューしたのは88組、92人。番組終了の1983(昭和58)年9月まで、12年間続いて最高視聴率は28.1%を記録した。
『スタ誕』の功績を、阿久は著書の中でこのように言い切っている。
《「スター誕生」以後のアイドルが、どこか同じ色合い、雰囲気を感じさせるのに比べて、「スター誕生」は、森昌子であり、桜田淳子であり、山口百恵であり、伊藤咲子であり、岩崎宏美であり、ピンク・レディーであり、小泉今日子であり、中森明菜であり、共通するのはデビュー時の年齢ぐらいで、見事に多色刷りであると自負している》