「東京の大学へ行きたい」

 岩泉高校農業科には寮があり、新卒の先生が最初に赴任してくる学校だった。

「すると舎監といって、25 ~26歳の若い先生たちが順番に泊まりにきては、“東京の大学とはこんなところだ”という話をするわけ」

 そんな話に感化された中洞さんは、集団就職をして働きながらお金を貯め、東京の大学へ行くことを決意する。働き場所は、東京の赤坂にあった精肉店。社長が岩泉町の出身で、故郷の青年たちに住み込みで働いてもらいながら、進学の後押しをしていたのだ。

 午前は仕事、午後は勉強という毎日を続けながら目指したのは、麻布獣医科大学(現・麻布大学)の獣医学科。2年続けて受験したが、合格はかなわなかった。

 獣医を諦めた中洞さんは、東京農業大学農学部農業拓殖学科(現・国際食料情報学部国際農業開発学科)に入学する。

「入ってみていいところに入ったと思ったね。みんな夢を持っていて、目をランランと輝かせて語るような先輩や同期が、いっぱいいたんです」

 “アフリカで農業を普及させてみせる!”“俺はブラジルに渡り、大規模酪農にチャレンジしたい!”──。

 そんな夢を熱く語り合う毎日に、中洞青年もどんどんと影響されていく。研修で見た、北海道中標津(なかしべつ)での広大な大地での放牧にも圧倒された。

「あの景観に、“やっぱりこれだ!”と。でも翌日には、“俺もブラジルだよなあ”。とにかく岩手の山奥で、3~5頭での酪農なんかできるわけがない、と」

 ところが、大学2年のある日、校内で見つけた立て看板が人生を大きく変えることとなる。

 その看板とは、東北帝国大学で植物社会生態学を研究、“草の神様”といわれていた猶原恭爾(なおはらきょうじ)教授が監修した映画、『山地(やまち)酪農に挑む』の上映を告げるものだった。

中洞さんの「こー、こー(来ーい、来ーい)」の声に、自由気ままに草を食んでいた牛たちが次々に駆け寄ってくる 撮影/吉岡竜紀
中洞さんの「こー、こー(来ーい、来ーい)」の声に、自由気ままに草を食んでいた牛たちが次々に駆け寄ってくる 撮影/吉岡竜紀
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 山地酪農とは、山地を利用する酪農をいう。急峻(きゅうしゅん)な山地での酪農を描いた映画だった。

「山と酪農って、全然結びつかなかった。私のようにへんに近代的で規模拡大を考えていた人間には、“そんなことありうるのか!?”と思った」

 映画では、傾斜角が35度以上もありそうな斜面を牛が元気に走り回り、野シバが作る緑の放牧地がまぶしかった。

「“こんなものがあるのか”と。それでもまだ半信半疑だったけど、山地酪農研究会というサークルに入って座学を受けたり、山地酪農をやっている牧場に見学に行ったり」

 この酪農に、すっかり魅了されてしまったのだ。

 大学への進学が少なかったこの時代、卒業して故郷へ帰ればエリートである。農協や役場に就職し、幹部候補におさまるのが常だった。

 ところが中洞青年は、こうした出世コースには見向きもしない。

「24歳で大学を卒業するときには、みんな(同期)の前でしっかりと言ってました。“(山地酪農を)俺がやらないで誰がやる! 俺はゼッタイにやるぞ!”と」

 だがそれは、苦労を背負い込むようなものだった。