大震災を境に起こった気持ちの変化
さくらいは、ひとり暮らしをしていた神戸で被災した。
「明け方、最初の揺れの直後は何が起こったのかわかりませんでした。ひとまず点滴が詰まらないように対処したところで、“部屋から出たほうがいい”という声が聞こえてきて……、外に出てみると、ここは地獄か、と。大げさでなくそう思いました」
ひしゃげた家屋、穴のあいた道路、あちこちから立ち上る炎や煙。呆然と近辺を歩いていると、長い行列が見えてきた。かろうじて通じていた公衆電話に並ぶ人々だった。「お父さん、お母さんは、大丈夫やろか」──でも、電話をかけるお金などもって出ていない。立ち尽くしていると、ふとひとりの男性が歩み寄り手を出してきた。思わず自分も手を出すと、その手に10円玉をそっと握らせ、電話のほうを目配せしたのだ。
「今でも、あれは本当の出来事だったんだろうかと思ってしまうくらい不思議な巡りあわせでしたが、とにかく、ありがたく、その10円玉を受け取って列に並びました」
そして、父と母の無事を確認し、実家に身を寄せる。
6000人以上が命を落とした震災で、生きることをしんどいと思っていた自分は無事だった。そこに何らかの意味を見いだす余裕はなかったが、生きていることにホッとする自分がいることは、確かに感じられた。
「実家のある地域は被害が軽く、電気もガスも水道もすぐに復旧しました。そこで微力ながらも、被害が大きかった地域の人たちにお風呂を提供したんです。するとみなさん、乾いたタオルを手渡しただけでも、ありがとう、ありがとうって感謝してくれる。そんな光景を見ているうちに、私は幸せのハードルをすごく高く設定していたのかな、と思うようになりました」
フルート奏者になるという夢を叶える。それこそが自分の幸せだと信じてきたが、幸せって本当は、もっと当たり前で身近にあるもの。こうして「幸せのハードル」がなくなったとき、静かに「生きるスイッチ」が入った。
ピアノ教師だった姉の手伝いを始め、ようやく人生が再び動き出したかに見えた。だが、ここでまた大きな病変が起こり、入院。当たり前の幸せに気づきはじめたというのに、それすら病気に阻まれるのか──夢を断たれたときよりも深く、強い絶望だった。
数々の「言葉」に背中を押されて
生きる道を見失ったさくらいは、しかし、ここから生きることを強く考えさせられる言葉と出会っていく。
「すっかり投げやりになっていた私の病室に、あるとき同病の人たちが来てくれたんです。私を慰めるためではありません。“自分の人生なんだから、自分で生きようとしなくては何も変わらへん” ──自分たちだってしんどいのに、彼らは口々に私を叱ることで私に力をくれたんです」
何も希望を見いだせない耳には優しい慰めの言葉など届かない。だからこそ同病の人たちは自分たちにしか言えないことをはっきり言ってくれた。さらには看護師たちからも「自分の身体なんだから、自分で治療を選びなさい」と言われる。主治医も「日本一の治療を受けてきなさい」と背中を押してくれた。
数々の言葉に力をもらい、東京の病院で診察を受けることを決意。当時のさくらいにとっては大きなことだった。
次々に湧き上がる不安を振り払う力になったのは、同じ病院に入院していた末期がん患者の言葉だ。
「“自分には必ずできるって信じなさい” ──そう言ってくれました。だから東京行きが決まってからずっと、“私には必ずできる”と何度も、何度も、唱えました」
東京での診察を経て、神奈川県にあるクローン病の専門外科医の手術を受けることになった。「この病変なら、手術で簡単に治るよ」と医師から告げられたとき、「もっと早く来ればよかった」とは思わなかった。将来に一筋の希望の光が見えたことが、とにかくうれしかったのだ。
1か月後、無事に手術を終えて退院。深刻な病変は取り除かれたが、一生、難病を抱えていることは変わらない。たびたび腹痛に襲われるし、トイレの回数も多い。それでもさくらいは、改めて「生きるスイッチ」を入れた。
「神戸からちょっと離れる選択をしただけでこんな大きな変化が起こり、希望が見えた。それには多くの人の後押しがありましたが、最終的に選び、実際に新幹線に乗って行ったのは自分なんだというのが、自信につながりました。それに、いざ、また悪くなったとしても、私には頼れる医師や支えてくれる友達がいる。そう思うと、もう“やるしかない”“負けない”という決意しかありませんでしたね」
このころに自分と約束したことがある。「できないって言わない」──この約束が、人生を大きく動かしていく。