そんな彼の役者デビューは、離婚後に初めて父と母が共演することになった舞台『鹿鳴館』。2人の共演だけでも話題になったが、さらに子ども役を実の息子がやることになったため、大いに注目されることになった。
父母と共演した舞台
「でも、母は大反対で“私は絶対に許しません。出るのなら降ります”とまで言うわけです。なので、プロデューサーからは“出るのはいいけど、お母さんを説得しろ”と。それで、毎日毎日、母のところに行って、“どうしてもやりたいんです”と、ずっと説得しに行くんですが、母は“ノー”と言い続けて、いつも大ゲンカして帰ってくる。
そういう日を何日か繰り返して、でも舞台は動きだしていたので止められず、稽古初日になり本番になった感じでしたね。なので、本番中も目を合わせてくれなかったですよ(笑)。
舞台が終わっても1年間くらい口をきいてくれなかったです。しばらく母は、“だまされた、だまされた”って言っていましたね。ただ父は僕の味方はしてくれていたんですが、母を説得するまでは難しかったようです」
『鹿鳴館』は再演されたが、その後、家族で共演するチャンスは2度と訪れなかった。
「もうちょっと自分が実績を積み、実力をつけてから両親と共演してみたかったという思いはあります。自分がやらせていただいてこんなことを言うのもおかしいですが、僕は本物の親子が役の上でも親子を演じることがいいことだったのかは、いまだにわからないんです。
でも、あのときよりもっと僕が力をつけてから共演できたなら、もっと面白い作品になったかもしれない、と思うことがあります」
『鹿鳴館』の舞台が終わると、岳大は平さんが出演するシェイクスピア劇に参加。会えなかった時間を埋めるかのように、濃密な時間を過ごした。
「オヤジとはシェイクスピアで8か月ほど一緒にやりました。地方の劇場を転々とし、新劇のベテランたちに囲まれて、舞台の発声もままならないころだったんで、もう、ずっとのどをつぶしていましたね。
そこから、僕の俳優修業が始まったようなものでした。とてもつらかったけど、すごく勉強させていただきました」
平さんの遺品の中には、名俳優らしく舞台写真や、著名人との写真が段ボールに何箱もあるという。
「家に帰ってから、“オヤジはこういうことをやっていたのか”と見るのがけっこう、楽しいんですけど、その写真を見ていると、“ああ、いいなあ”ってすごく思いますね。
遺した写真や資料を見て、改めてオヤジは届かない存在なんだと思うんですが、そのことを心地よく思える年齢になったと自分でも思います」