「どうしても家に帰りたい」
垣添さん唯一の気がかりが、SLEという難病を抱えていた昭子さんの健康状態であった。2000年には肺の腺がん、数年後には甲状腺がんを発症する。
垣添さんが“がんサバイバー支援ウォーク”を通じて訴えているように、がんの5年相対生存率は62.1%(2006~8年)。“がん=死”といった発想は完全に時代遅れで、この2つのがんも手術で治すことができた。
だが2006年春、手術後の定期検診で4ミリの影が、新たに昭子さんの右肺に発見されたのだ。
「呼吸器診断の専門医に診てもらうと、“なんかおかしい影がある”と。経過観察に入って半年たったあとのCT画像では、私が見ても影が6ミリに大きくなっていて、雪だるまのようなかたちになっていた」
このときは先端治療である陽子線治療を選択した。治療後、肺の腫瘍が消失したとの主治医からの報告に夫婦で歓喜したのもつかの間、2007年2月の検査で、新たながんである“肺小細胞がん”と確定診断された。ほかの肺がんに比べて発育が早く転移もしやすい最悪のがんだった。
この3度目のがんに対しても、昭子さんは敢然と立ち向かった。化学療法を試し、放射線治療を受ける。だが……。
「長くて3か月ぐらいじゃないか、と。昭子は告知を淡々と受け止めていましたね。泣き騒ぐなんて、1度もなかった。土日は外泊ができるんだけど、家に帰ると、私に手伝わせて衣類の整理をさせるんだよ。“これは私に、どこに何があるかを教えているんだ”と思った。私は……つらかったけど、しょうがなかった……」
ある週末の外泊は、銀座にショッピングに出かけた。
「確か2着ほど洋服を買って帰った。彼女、服を買うとファッションショーと称してそれを着て、鏡の前で帽子をかぶってハンドバッグを持ったりするんだけど、体調がよくないはずなのに、実に楽しげにしているんだ。“あれは死に装束を選んでいるんだ”と……」
12月の中旬には容体が悪化し、寝たきりの状態に。このころ、昭子さんが“どうしても”と希望したことがある。
“年末年始は、家で過ごしたい……”
12月28日、昭子さんに外泊の許可が下りる。
「家に帰ると決めたときに“夕食には何が食べたい?”と聞くと、“あら鍋が食べたい”。
だから宅配便で取り寄せておいて、私が料理して。
抗がん剤の副作用で口内炎もたくさんできていたけれど、大きなお茶碗2杯分を“美味しい、美味しい!”と食べてね。“家ってこうでなくっちゃ!”とニコニコと本当にうれしそうにしていた」
だが2人の会話は、これが最後となる。
30日には死期が近いことを表す過呼吸と無呼吸を交互に繰り返す症状が始まる。
そして翌31日の大みそか。
「夕方の6時15分だったかな。それまで妻は完全に意識がなかったんだけど、突然、半身を起こしてパチッと両目を開けて。自分の右手で私の左手を握って……。言葉にはならなかったけども“ありがとう”と言ったと思っている」
2007年12月31日6時15分。垣添昭子さん死去。
駆け落ち同然で結婚し、40年近くをともに過ごした妻。英語が得意でファッションセンスは抜群なのに、セーターは赤にするのか黒を選ぶのかを決められなくて、“どっちがいい?”と、たびたび意見をせがんだ可愛い女性。
そんな最愛の女性との、永遠の別れであった。