最悪のうつ状態を克服
50年近くともに暮らした女性の死に、垣添さんは打ちのめされた。
「覚悟はしていたけれど、朝に夕に話していた人と対話ができない。これがつらかった。酔っ払いたいと思うんだけど、ビールなんかじゃ酔わない。だからウイスキーとか40度近い焼酎をロックであおって」
銀座の日本料理店で席が近かったことで知り合い、垣添さんの“山登りの先生”でもある『日本電装工業株式会社』代表取締役の渡辺仁さん(73)は、
「奥さまが亡くなられて2~3か月後、先生にとって最悪の時期に知り合いましたが、暗くて鬱屈(うっくつ)しているのが感じられましたね。最初はそういう人なのかと思っていましたが、お店の人や他の人から、“奥さまを亡くされていくらもたっていない”と聞かされて。それで納得しました」
昭子さんが残した靴を見てもスカーフを見ても、垣添さんの目に涙があふれ出た。グリーフケア(身近な人と死別して悲嘆に暮れる人が立ち直れるよう支援するケア)の大切さをあらためて考え始めたのも、このころだ。
「最初の1か月ぐらいはみんな気にかけてくれるけれど、そのうち励ますつもりで“いつまでメソメソしているの!?”と、ひどい言葉を投げかけられたりして。そのつらさは、同じ経験をした遺族にしかわからない」
立ち直りは、百か日を過ぎたころのことだった。
「住職さんが“百か日の法要をしたほうがいい。仏教では百か日は亡くなった人・残された人が死を得心(納得)するとされる日です”と。
私は死ねないから生きているような感じだったけど、法要を機会に、こんな酒浸り、泣いてばかりではいけない、生活を立て直そう、と」
昭子さんが亡くなって以来やめていた腕立て伏せや背筋といった日課のトレーニングを再開すると、わずか数回で息が上がってしまった。それでも続けると、100回、200回と回数が上がっていった。体力が回復し、体調が整うにつれ、気分は前向きになり、趣味の山登りやカヌーでの川下りに再挑戦する気力も出てきた。
以来、今にいたるまでともに何回も剱岳に登山している渡辺さんも、変化を感じ取っていた。
「顔つきが明るくなっていくのがわかりましたよ。知り合った先の日本料理店のご主人も先生のことを気にしていて、“先生、明るくなったね!”と。うれしかったなあ。
本来の垣添先生って、大先生なんだけれど偉ぶらない人でね。友人であることをいいことにそれを感じさせない会話をしていると、“オレだって出るところに出ると少しは偉いんだゾ!”と(笑)。茶目っ気のある人なんですよ」
ともにお酒が大好きで、2人でよく飲みに出かけると渡辺さん。
立ち直りに大きな役割を果たした気の合う友人の登場は、垣添さんを心配した昭子さんの、天国からの配剤だったのかもしれない。