ママになっても居場所が欲しくて
’96年、28歳で結婚。熊本に来てから婚活パーティーの司会を始めた。当時はバラエティー番組『ねるとん紅鯨団』にあやかり、「ねるとんパーティー」などと称して開催されていた。荒木さんは合コンで友達を何組もカップルにしてきた経験を生かし、婚活パーティーを盛り上げた。
知り合いもいない地で新たなチャレンジもした。ラジオのパーソナリティーをやってみたくて、地元ラジオ局や制作会社に飛び込み営業をした。
「会うだけは会ってくれても、空振りばかりですよ。ラジオの経験がないからしかたないですが、何かメディアに関わって発信力を持ちたかったんですよね。最初はタレントに憧れていたんです」
10社回り、ようやく1社がアシスタントとして雇ってくれた。電話リクエストの電話がかかってくると、紙に書いてパーソナリティーに渡す仕事をしながら、ラジオのノウハウを学んだ。
しばらくすると妊娠がわかった。自分と同じ一卵性の双子だ。12月25日、分娩(ぶんべん)室に『恋人がサンタクロース』が流れるなか、長男を通常分娩で出産した。ところが、次男のへその緒まで長男と一緒に出てきてしまい、慌てて医師が子宮に戻して緊急帝王切開に。かろうじて次男は助かった。
産後は実家に里帰り。家事は全部やってもらったが、双子の育児は想像を超える過酷さだった。ひとりが起きて泣くと、もうひとりも泣く。荒木さんは全く眠れず3日間、徹夜が続いたある日─。
オムツの空箱を2つ手にすると、息子たちにパコッパコッとかぶせた。
「あー、静かになった」
部屋の隅で体育座りしたまま、荒木さんの頬にはとめどなく涙が流れる……。
「ちょっと休みなさい」
様子を見に来た母親が気づいてくれ、事なきを得た。
「眠れなくて、ノイローゼになって、考えることができなくなったんですね。それでやっと、第三者のサポートがないと双子の育児はできないとわかったんです。母からは、“あまり気負わないで。大変だけど楽しみなさい”と言ってもらいました」
それからは自分の実家と夫の実家を行き来して、自分も昼寝をさせてもらったり、子どもたちを風呂に入れてもらったり。生後10か月を過ぎ、やっとひとりで育児と家事ができるようになった。ノイローゼになった経験から、「自分からSOSを出して」と子育て講演会で話をしている。
息子たちが幼いときは2か月に1度、母に預けて婚活パーティーの司会を続けた。家事をキッチリこなしつつ子どもの成長に合わせて仕事を増やしていったため、次男の勇哉さん(20)は「寂しい思いはしなかった」と振り返る。
「仕事が終わるとすぐ帰って来てくれたし、相談をするといくら忙しくても、ちゃんと聞いてくれましたから。今は母が落ち込んでいると僕が話を聞いています(笑)」
どんなに大変でも決して仕事をやめなかった裏には、どんな思いがあるのだろうか。
「子育てをしていると自分の下の名前は呼ばれないじゃないですか。郁哉君のママ、勇哉君のママで終わる。じゃあ荒木直美はどこに行ったのかなーと考えたときに、世の中に自分の居場所も欲しいし、誰かの役にも立ちたいと思ったんです。ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、婚活を応援することで少子化や地方の人口減少に、少しでも歯止めをかけることができたらいいなと思って。
それに、泳ぎを止めたら死んじゃうマグロじゃないけど、私はやっぱり仕事をしていないとダメな人間なんです」
’07年、地元テレビ局の新人レポーター募集があり、応募すると見事、合格。FMラジオのパーソナリティーの仕事も始まり、38歳の新人タレント荒木直美が誕生した。