夫は命の恩人、と主婦業を精いっぱい

 女学校を卒業後、武蔵野大学(旧千代田女子専門学校)に進学。国文学を学び中学の教員免許を取った。

 ところが、'52年、22歳のときに肺結核を発症。それが思わぬ方向に、人生の舵(かじ)を切ることになる─。

 亡き夫の正武さんはそのころ、高円寺の近くで古書店を共同経営していた。ボードレールの詩集などを熱心に立ち読みする京子さんに好感を抱いたのか、「読みたい本があれば古本市で買ってきますよ」と声をかけてくれた。やがて手に入れた本を自宅に届けてくれるようになり、間もなく京子さんの病気がわかった。

「肺結核は手術で治ります」

 正武さんは京子さんの家に来て熱心に説いたが、両親は大反対。まだ手術例は少なく成功率も低くて、危険を伴ったからだ。

「私、手術を受けたい」

 意外なことに京子さん自身はすぐに心を決めた。

「そのころ結核の療養所はいっぱいでね。2年くらい待たないと入れなかったんです。家にいて妹たちに結核がうつらないか気兼ねしながら暮らすのがつらくて……。医者に診てもらったときはすでに重症でしたから、どんなに死にたいと思ったか。だから、手術を受けて死ねるなら、チャンスだと思ったんですよ」

 だが、手術を受けるには親族の承諾書がいる。首を縦に振らない両親を見て、正武さんがこう切り出した。

「書類上だけでも夫婦になればいい。僕が承諾書に署名捺印します」

 手術の直前に入籍。肋骨4本と左肺上葉部を切除した。

 無事に生還して退院できたが、両親を振り切るように出てきたため実家には帰れない。教師になった正武さんの勤務先の近くに部屋を借りて、ともに暮らし始めた。

 親戚を通じて声をかけてくれた静岡県の高校に転任。京子さんは医師の指示を守って安静な生活を2年間続けると、結核菌も出なくなった。

「お医者さんに完治したと判子をもらって、その日にお祝いをしました。ケーキを買って、2人だけの結婚式をしたんです」

 '58年、28歳のときに娘の洋子さんを出産。3年後に長男が生まれた。

 京子さんは常に夫を立てるよき妻、よき母だった。いつも料理をたくさん作り、子どもたちの洋服やおやつも手作りして家族を支えた。

夫の蔵書に囲まれて好きなバイオリンを弾く時間が癒しだった
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「夫とはね、惚れた腫(は)れたじゃないんです。ただ、私のことをかわいそうに思って、私の身体を治してやりたい一心で、結婚してくれたんです。だから、私は夫への感謝と申し訳ないという気持ちでいっぱいでしたね」

 晩年の夫は病気続きだった。心臓や大腸を患い、5回手術した。血液をサラサラにする薬を飲んでいたため腸から出血すると止まらなくなる。車に入院グッズを積み込んでおき、夜中でもすぐに病院に連れて行った。精神的に緊張を強いられた介護生活は10年間に及んだ。