夕空が宵の薄闇に変わるころ、三味線の音とともに湯の街は色づく。浴衣に身を包んだ酔客が転がす下駄の音、芸者衆の草履の音にまじって、露店を見てまわる艶っぽい女たちの声、諍(いさか)う男たちの怒鳴り声も聞こえる。

「いらっしゃい」

 暖簾(のれん)をくぐった常連客の注文を聞くと、祖母は厨房(ちゅうぼう)に入り、ビールの栓を勢いよく抜いた。

「刺身の切り身を1つ多くつけようかね」

 そう言うと祖母は、厨房の奥のテーブルにひじをつき、本から目をあげたあつこに微笑(ほほえ)んだ。

 あつこは小学校の高学年になると、祖母が切り盛りする食堂『山陽亭』の手伝いをした。店の手伝いがない日も、学校から帰ってくるとこうして薄暗い厨房の奥のテーブルに座り、本を読んでいた。

 祖母は長らく旅館の女将(おかみ)を務めたが、あつこが物心つくころには旅館の1階で食堂を始めた。情の厚い祖母を慕って、地元温泉街で働く人たちはもちろん、芸者衆やヌード劇場で働くお姉さん、果ては、

「ぬいさんのオムライスが好きじゃ」

 と言って、遠方から泊まりがけで来るテキ屋の親分もいた。色鮮やかな彫り物を見て、

「どうしてあんなに模様があるの」と聞き、祖母から、

「いらんこと言うな」

 と、たしなめられることもあった。

 厨房の奥に座り、あつこは男女の艶話、痴話喧嘩(げんか)、刃傷沙汰(ざた)、失踪事件を聴くともなく耳にした。本を読むことで、こうした大人の世界の理(ことわり)を知ることができた。

─私は大人と子どもの世界が分かちがたく結び合い、重なっている世界に生きてきた。

 あつこは、上品で取り澄ました場所からは決して生まれない、猥雑(わいざつ)なエネルギーがマグマのようにあふれ出る湯の街に生まれ落ち、そうした磁場の空気をいっぱい吸って育った。

─ここが私の原点。

 多くの物語を紡ぐようになった今も、暖簾をおろして長い年月がたつこの場所を時折訪れる。すると色づく湯の街の光景が鮮やかに蘇(よみがえ)り、愛(いと)おしさのあまり時を忘れた。

◇    ◇    ◇

 児童文学の歴史を変えたベストセラー小説『バッテリー』を皮切りに、時代小説、恋愛小説など多岐のジャンルにわたり旺盛な執筆活動を続けている作家・あさのあつこは、岡山県美作市湯郷という1200余年の歴史を持つ小さな温泉郷で昭和29年に生まれた。

祖母が営んでいた食堂はあさのさんの思い出の場所
祖母が営んでいた食堂はあさのさんの思い出の場所

 父・肝(たける)は生まじめな税理士、母・数世は高校教師という共働きの家庭に育った。3歳上には姉・いく子、小学3年生のときに弟・望も生まれた。

「父が“男の子をずっと待ってたんだ”と言って病院から満面の笑みで帰ってきたのを今でも覚えています。“私が生まれたときはがっかりした”と何度も聞かされていたので、私は父に愛されていないとずっと思っていました。ですから父の死後、母に新聞や雑誌に載った私の記事のスクラップブックを見せられたときは、初めて父の思いを知り、涙しました」

 と話すあつこ。愛情を子どもたちに伝えるのが不器用な父だった。

 一方の母は、母親である前に教師であった人。

「私が熱を出しても、まず生徒を優先するような母でした。小学生のころ、大雨で川が氾濫して。めっちゃ心細いじゃないですか。母が勤める高校に電話をかけて“帰ってきて”と頼んでも、“生徒の無事を確認しなければ帰れない”“いちいちかけてこないで”と叱られました。姉は“教師だから、しょうがない”とあきらめていましたが、私は寂しい気持ちでいっぱいでした」

 そんな思いを埋めてくれたのが、母方の祖母・ぬいの存在だった。

両親と距離を感じていた幼少期、祖母・ぬいさんの存在に救われていたという
両親と距離を感じていた幼少期、祖母・ぬいさんの存在に救われていたという

「友達と野山を駆けめぐって遊び、お腹をすかせて帰ってくると祖母がラーメンや焼きそば、おにぎりを作ってくれる。本当に美味しくて、友達にも羨ましがられました」

 あつこには、祖母の食堂で目にした、忘れられない光景がある。

「ある日、百円を握りしめ、“これで食えるものを作ってくれ”と頼むお客さんがいました。祖母はそのお客さんに250円の定食に大きな出し巻き卵をつけて出してあげて。誰にでも手を差しのべる祖母ではありませんでしたが、“一生懸命に生きている人にはサービスをする”がモットーの人。何か祖母の琴線に触れるようなことがあったのでしょう。世の中にはいろんな人がいて、だから人間は面白い。そんなことを食堂で自然に学んだ気がします。作品を書く糧のようなものをあの時代、たくさんもらいました