ついに2019年4月末で平成の時代が終わる。平成の世を彩り、輝きを放ったスターはそのとき何を思い、感じていたのか? 当時と今、そしてこれからについてインタビューで迫っていくこの連載。6回目はシドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんです。

Vol.6 高橋尚子

 コンピューターの誤作動か。それとも地球滅亡か。世界中が期待と不安に沸くなかで見守った、2000年のカウントダウン。あの年明けから始まった1年間は「ミレニアムの年」と呼ばれ、平成とはまた趣の異なる「時代の幕開け」となった。

 20世紀最後、2000年代初の五輪が豪・シドニーで開催。あの大会でのハイライトは、なんといっても女子マラソンだ。

 日本人女子として陸上初の金メダルを獲得し、女子スポーツ界で初の国民栄誉賞に輝いた、高橋尚子さん。列島を興奮させたQちゃんは今、スポーツキャスター・解説者として東奔西走の日々を送る。

陸上競技との出会い

「刑事ドラマみたいな鉄砲を『パーン』って、同じ年齢ぐらいの子が撃ったんです。『わっ、カッコいい!』。その瞬間、陸上部に入ろうって決めました」

 故郷・岐阜市内の中学に進み、バスケ部と陸上部のどちらに入部するか迷っていた高橋さん。陸上部の下見に行った校庭で出会ったのが、先輩部員が天に向けて撃ったスターターピストルだった。

小学校のころから走るのが大好きでした。ここで陸上競技を始めることになってから、中距離に取り組むことになったんです

 中学の部活動では、みんなで楽しく走ることに重点が置かれていたが、記録はぐんぐん伸び、岐阜商業高校はスポーツ推薦で進むことに。大学進学では、体育大からの推薦を断り、商業経済を学びつつ、教員免許が取得できる学校を探した。

 結果的に、教員の採用実績が多く、陸上競技部の盛んな大阪学院大学に推薦で進むこととなる。

これで夢をあきらめずに、陸上のステージも先に進むことができる!

 大学の部活では午前6時半の起床から、カロリー計算と練習日誌の記入作業が終わる午前2時まで、多忙な日々を送った。

「ワープロで日誌をつけて、やっと寝るんです。でも、ハードだという実感はなかったなあ」

 そんな生活を続けていた彼女の転機は1994年。大学4年生の夏に訪れた。