太田垣家の娘として、恥ずかしくないように
「太田垣先生は心があるの」
そう話すのは、長年住み慣れたマンションが、老朽化による建て替えのため、立ち退き交渉を受けた吉野静子さん(仮名・76)。
「司法書士なんて、事務的だろうと思ってたら、違ったの。高齢者の物件探しの苦労もわかっていて、“お身体大丈夫ですか”って、気にかけてくれてね。これが口先だけじゃないの。
次の物件が決まって、立ち退きまで二重の家賃を払うことになったら、大家さんに掛け合って、立ち退く物件の家賃を無料にしてくれて。それも3か月分。ありがたかったですよ。新居に引っ越してすぐ、先生から“お疲れが出ませんように”って、手書きのハガキが届いたときは、ここまでしてくれるの! って、うれし涙が出たほどよ」
太田垣さんは仕事机に、四季折々のハガキや、かわいい絵ハガキを忍ばせている。
「立ち退きで引っ越された方の新生活を応援したくて、最初に届く郵便物は、私が出そうと決めています。滞納者の方からいただくお礼状にも、必ず返事を書きます。私を頼ってくれて、ありがとうという気持ちを込めて」
相手の痛みに寄り添い、人生の仕切り直しを応援する。
ごく自然にそれができるのは、自身が多くの痛みを経験してきたからだ。
太田垣さんをひと言で表現するなら、「由緒正しき、お嬢様」と言えるだろう。
1965年、大阪で生まれ、兵庫県川西市で育った。
大手商社に勤務していた大正生まれの父親は、『天空の城』で有名な、竹田城主・太田垣家の末裔。見合い結婚した母親も良家の出身で、ふた言目には「太田垣家の娘として、恥ずかしくないように」と、しつけられた。
4つ上に姉がひとりいる。
「姉は家風に合ったまじめな性格でしたが、私は幼いころから活発でしたね。でも、読書も大好きな、夢見る夢子ちゃんだったんですよ(笑)」
読書家になったのは、父親の海外赴任で、5歳から10歳まで台湾で暮らしたころ。
「当時は、日本語のテレビアニメもやっていなかったので、祖母が船便で送ってくれる日本語の本や絵本が唯一の楽しみ。もう、暗記するほど繰り返して読んでいました」
帰国後、中学、高校は兵庫県内の名門校、雲雀丘学園へ。そのころには、書くことにも目覚め、当時、やなせたかしさんが編集長だった『詩とメルヘン』のコンクールで大賞を受賞。お嬢様学校として知られる、神戸海星女子学院短期大学に入学後は、出版社のアルバイトで、雑誌のインタビュー記事を任されるほど実力をつけていった。