「私を採らないと損ですよ!」
この経験が、就職活動でビッグチャンスをつかむ足がかりとなった。狙うは、地元プロ野球球団の広報の仕事。
「当時、オリックスが阪急ブレーブスから球団を買い受けたのを機に、新球団の職員を募集したんです。大学時代の憧れは、作家の沢木耕太郎さん。広報に入って、私も広報誌を作りたい! と、張り切って応募しました」
もっとも「大学でロクに勉強しなかった」ため一次試験の一般教養はさんざんな出来。しかも、倍率が1200倍だと知って、のけぞった。
ところが、太田垣さん、あきらめるどころか、驚きの行動に打って出た。
「球団オーナーの宮内義彦さんに直接手紙を書いたんです。私なら、出版社で働いた経験を生かして、広報誌をひとりで作れます。大幅なコストカットができますと」
当時のオリックスは、法人向けの事業を展開していたので、ファンに向けた広報のノウハウを持っていないと分析。広告代理店を入れれば、莫大なコストがかかる。それを、自分が一手に引き受けると便箋にぎっしり書き綴った。
そして、最後にこう締めくくった。
「私を採らないと損ですよ!」
まさに圧巻の自己PRは、球団トップの心を動かしたのだろう。採用が決まった。
1989年、広報としてオリックス球団に入社後は、目の回るような忙しさだった。
「ファン向けの広報誌を、宣言どおり、たったひとりで担当しました。朝9時に出社して、昼からは球場に詰め、ナイターが終わって帰宅するのはいつも深夜。遠征試合にもほとんど同行していましたね」
採用が決定した際は、スポーツ新聞の一面に、“女性初の広報誕生!”と大々的に報道されるほど注目された。
だが、「浮かれた女の子」に、選手の風当たりは強かった。
当時、女子アナの先駆けとして、球場で取材を続けていた、元TBSアナウンサーでオリックス・バファローズ野手総合兼打撃コーチ田口壮夫人・田口(旧姓・香川)恵美子さん(53)が話す。
「まだ女性に門戸が開かれていない時代、男だけの世界に飛び込むのは大変だったと思います。私も同じでしたから。彼女は、人前でつらい顔を見せないので、何を言っても平気だと思われてしまう。露骨に追い出そうとする人もいました。仕事を評価してもらう以前に、しょせん女、女ごとき、という色メガネを取る闘いが続いていたんです」
選手のロッカールームにメディアの取材を伝えに行けば、無視されたり、「お前が受けとけや」とかわされる始末。
女子トイレで泣いては、何もなかった顔で現場に戻る日々が続いた。