ヘンリーの宿泊施設では、大勢のボランティアが働いていた。86歳のフォレストは、パーキンソン病だが、震える手でブルースハープの演奏をすると、素晴らしいビブラートを奏でる。レストランで演奏する彼はヒーローだった。
ワッフルを焼いていた85歳のニックは、難病の子が「2枚ちょうだい」と言うと「駄目だ、1枚食べ終わったら来い」と叱る。食べ物を残すな、といつも怒っている。第2次大戦の兵隊だったから、食べ物にはうるさいのだ。
大住はこの地でそんな多様なボランティアの姿を知った。
独立、そして膨らむ借金
無償の奉仕ではなく、ボランティア自身が活動を生きがいとして楽しんでいる。「パス・ミー・ザ・ソルト」の考え方を学んだのもこのときだ。
帰国した大住は、すぐに「日本のディズニーでも同じ活動をやろう」と提案した。ところが経営陣の判断はノー。その後、約7年間交渉、ときに社員に署名活動も行ったが、いつも「わが社にとってのメリットは?」という議論が起きて判断保留になってしまう。
44歳のとき、任されていたプロジェクトの区切りがあった。このとき大住は思った。
─いま自分でやらなければ一生できないだろう。ヘンリーは「日本人は信用できない。やると言いながら誰もやらない」と言う。それも口惜しい。
大住は会社に辞表を出す。
そして2010年3月、NPOを設立。仲間3人での船出だった。聖路加病院名誉院長の日野原重明さんや小児科の細谷亮太さんが支援を表明し、支援企業も現れ、船出は順調に思えた。けれど、すぐに東日本大震災が日本を襲う。「大住さん、すまん」。人も企業もすべてのボランティア活動は東日本へ向かった。大住たちスタッフは3年間、ほぼ無給で地道な活動を展開せざるをえなかった。
「正直、あの時期は逃げたいと思う日もありました。借金が膨らんで、1か月の半分以上は銀行を訪ねて頭を下げては門前払い。その繰り返しでね。だけど、どんなにどん底でも、やっぱり自分はこれをやるしかない。これをやらずしてお前はどうする、絶対うまくいくって。思い込みの激しいやつなんですよ(笑)」
懐に入るお金はない。それでも、支援する家族との出会いが糧となり、前を向くことができた。
「サラリーマン時代には味わえなかった“喜び”が家族との出会いの中にあった。誰かのために動きたい、その人に感謝される。これがあれば、何もいらないなぁって」
設立から約10年。現在ではスタッフ10人。年間活動費は約7000万円。半分は個人と企業からの寄付で、残りは助成金と大住たちが手がける人材育成事業の売り上げで賄う。現在までにウィッシュ・バケーションを体験した家族は約240組。1度の旅行だけでなく、家族とはその後も母親たちを集めた太鼓チームを結成したり、運動会を開いたり、折々に触れ合う活動を展開している。
「旅行への招待はきっかけにすぎない。関係を永続させたい。それが、いちばん意味のあることだと思っています」