再び大学へ、そして母の反対
リハビリ期間中は周囲に勇気を与えていた倉橋さんだが、大学に戻った当初がいちばん弱気になったという。復学して最初に感じたのは健常者とのスピードの違いだった。
「授業でメモを取るのもついていけない感じでした。同級生たちはとっくに卒業してしまっていて、知らない人の中に3年遅れて入りましたし。最初のうちは大学の元の友達に“授業が追いつかない!”とか“周りにこれ頼みたいけど迷惑かなぁ?”なんてこぼしていました。
でも私は昔からなんやかんやと愚痴っては結局、自分で解決していることが多かったので、友達もまた言ってるなくらいで聞いててくれて(笑)。私としては話をするだけで満足して、また次の日から元気になれました」
大学へは車での通学が許されていたが、建物にはエレベーターがなく、ほとんどが階段だった。誰かの手を借りなければ授業のある教室までたどり着けなかったため、最初は年下のクラスメートたちの様子を窺い、何時までに行けば教室まで運んでもらえるだろうかと予想をしながら大学へ行った。
「だんだん一緒に過ごしていくうちに友達にもなるから、車で到着したところを通りがかった人に一緒に教室へ行ってもらったり、6階までみんなで担いでもらったりしてました。教授に“お前、いろいろ引き連れて桃太郎みたいやな”と言われてましたね(笑)」
友人たちは教室の扉に倉橋さんが出入りしやすいように紐をつけてくれたり、唯一あるエレベーターが点検中になったときはいったん教室を出た人も戻ってきて4階から下まで運んでくれたという。
「試験は先生に相談して、筆圧が弱いのでボールペンで書かせてもらったり、車いすが無理な教室のときは別室で受けさせてもらったりしましたが、ほとんど普通に受けることができました。でも授業に出席できたのは、本当に周りのおかげだったと思います」
国立障害者リハビリテーションセンターにいるときに出会った車いすラグビーに夢中になり、'15年4月からはクラブチームBLITZに参加した。倉橋さんは大学卒業後もBLITZの活動を続けたいと関東に残る決心をする。
これには当然、家族の反対があった。その胸の内を母が語る。
「中途半端な気持ちでやってほしくなかったですし、反対されても絶対続けようという気持ちがないと無理だと思ったので、何があっても反対しようと決めました。本当は地元で一緒に暮らせたらと思っていましたし。そうしたら自分で就職先も決めてきたんです。これというものがあったら、そこへブレずに向かっていく子なので。その点は何も心配してないです」
倉橋さんもそんな母への思いを話す。
「実際こういう生活をすると動きだしてからは、やってることに反対せず応援してくれています。ありがたいです」