ずっと忘れられない母の言葉
「中澤さん、おめでとう」
かつてヤンチャした時期があった阿部義昭さん(37)が持参したプレゼントを手渡し、こう言う。
「僕、お母さんがいないんですよ。だから中澤さんはお母さんみたいな人です。中澤さんの料理ではカレーがいちばん好き。というより、カレー以外は食べたことないんじゃないかというぐらい、何かというとカレーだった(笑)。
今、大人になって初めて、“お世話になっていたんだな”と感じています」
山岡仁司さん(仮名=37)は、
「(更生カレーをごちそうになったのは)10回、20回じゃきかないですね。今になって初めて“家族の1人として見てくれていたんだな”と」
そんな言葉に微笑みながら、中澤さんが配膳の手を休めることなく言う。
「さんざん心配させられた子たちが、今は私のことを心配してくれるのよ“無理しないでくださいよ”とか、“元気ですか?”とか、私が昔さんざん言っていたのと同じ言葉を言いながらね(笑)。
私の明治生まれの母親がね、“自分に直接は戻ってこなくても、親切はぐるっと回って返ってくる。だから見返りを求めちゃダメだ”って。
そう言っていたのを思い出しますよ─」
中澤照子さんは1941年、大工道具の販売と修理を手がける父・高橋仙三郎さんと母・はるさんの間に生まれる。8人きょうだいの下から2番目で、東京の本郷で育った。中澤さんには、母・はるさんから常に言われ続けたことがある。
《善悪の区別をつけなさい。人には優しく、そして、いつでも元気でいなさい─》
「“勉強しろ”とは言われたこともなかったね。でも、人に親切にしたり優しくしても、“こんなことをしたと、言葉にしてはダメ。言った時点で消えていくから”って。
だから、“実は照子ちゃんにこんなことをしてもらってありがたかった”という言葉が母の耳に入ると喜んでね……。“あの年寄りはいい子に会ったと喜んでるよ、夕飯時には、きっとお前の話が出てるよ”と、勝手にストーリーを作るんですよ(笑)」
1年ほど前のこと。本郷の実家に戻ると、98歳になった元同級生の母親が感極まった表情で中澤さんにこう言った。
“小学生のころ、照子ちゃんはうちの子が坂道の階段を上がれるよう手を引いてくれた。私はそれを見て、毎日、手を合わせていたのよ─”
同級生は足が悪かった。その子の手を引き、学校まで付き添ったのを、母親は70年以上たった今もまだ、鮮明に覚えていたのだ。
学校を卒業した中澤さんは、公務員試験を受けて東京都交通局に就職。
数年後、日本全体が高度経済成長期に突入すると、豊かになりつつあった国民生活を当て込んで、交通局も観光バスの導入を決めた。中澤さんをバスガイドに、との白羽の矢が立ったのだ。この花形職業の枠はたったの2席。大抜擢されての、バスガイド就任であった。
「やることにメリハリがあったから、それが(抜擢の)理由だったのかもしれない。
でも、ガイドするから暗記しなくちゃいけなくて本がドッカンドッカンと来てね。
“こんなにたくさん覚えてられるかしら?”と思ったけど、私ってお調子者というか、臨機応変型なのね。覚えていない場所にくると、違う話題を振ったりして車内を盛り上げちゃう(笑)。楽しくはじめて機嫌よく終わらせるのが上手だったと思う」
だが、そんな天職とも言えそうなバスガイドの仕事を、わずか数年でやめてしまう。
実は、父・仙三郎さんが病気になり、家族を支えようとしての就職だった。成り行きで就いた仕事に未練はなかったのだ。