天職から転職、大物歌手との出会い
そんな無職となった元人気バスガイド嬢に、思わぬ転職話が降って湧く。
“古賀政男音楽事務所の電話番がいないんだ。ちょっと手伝いに来てくれないか?”
同事務所で相談役を務めていた親戚から、就職話が持ちかけられたのだ。大作曲家であり、幾多の名歌手たちを育て上げた、芸能界の大立者の事務所からの話であった。
だが当の本人は、芸能界にも歌謡曲にも興味はなし。熱中していたものといえば、読書とモダンジャズ。被差別部落の問題を描いた住井すゑの著書などを読みふけっては、新宿三丁目にあったジャズ喫茶『新宿ヨット』に入り浸り、ソニー・ロリンズやアート・ブレイキーなどのサウンドに酔いしれていた。
「(新宿ヨットには)立川あたりから黒人がやって来たり、浪人の学生さんが来たり、ヤクザや風俗店の女の子が来たりとか、時間帯によって客層が全然違うの。時間があるとそこに行ってレコード聴いているうちに、いろんな人から相談を受けるようになってね」
中澤さんの保護観察を受けた人たちがしばしば口にする、どんな不良やヤクザ者でも最後には胸襟を開き、心の奥底を吐露してしまう接し方。それはこの時代の経験が育んでいったものだったのかもしれない。
そんな女の子の転職話への返答は、
「歌謡曲の事務所なんて嫌!」
だが、事務所の所在地が気になった。日本を代表する繁華街・銀座にあったのだ。
「文京区から通いやすいんですよ。それで“行ってみようかなあ”と」
不良社員であったと、中澤さんは笑う。出勤して事務所内を掃除したら、電話の番。気が乗らないと“本日はお休みさせてください”の貼り紙を出して、遊びに行ってしまうのだ。
だがこの人の持ち味が、ここでも光りだす。
てきぱきとした対応と竹を割ったような性格が、古賀氏に気に入られた。すっかり信頼されて、事務所から古賀邸まで書類を届けに行くこともたびたびだった。
「そこでも内弟子さんたちの相談を受けたりするわけですよ。“どうやったら早くデビューできるだろう?”とかね」
その面倒見のよさに、実は古賀氏も気がついていた。
“この子は事務所に置いておかないで、マネージャーの仕事を覚えさせなさい─”
古賀氏には思惑があった。ちょうどそのころ、古賀音楽事務所は、とある新人の出現に沸き返っていた。近々ふるさとの新潟から、歌手になるため上京してくるという。
可愛らしい容姿と、わずか10歳でありながら誰もが舌を巻く歌唱力。
その新人の名は、小林幸子といった。
「(小林は)なにしろ可愛い子。1を教えたら10を悟れる子。アクがなくってスポンジみたいに吸収するの。あれは持って生まれたものだったのね」
当時、中澤さんはひと回り年上の22歳、マネージャー職はもちろん初めて。新米マネージャーと10歳の新人歌手との二人三脚が、ここに始まる。
天性のコミュニケーション力を持つマネージャーと、これまた天性の歌唱力を持った歌手の二人組は、その相乗効果でみるみるうちにトップスターへと駆け上がっていく。
小林幸子さんが当時を思い出し、笑いを堪えながら言う。
「そのころ、ものすっごくモテる人でしたよ。髪はワンレンで、おしゃれで華やか。
“照ちゃん”とか“お照”と呼ばれていましたね。
そうそう、マニキュアと靴が大好きなんですよ。スエードの靴を買って初めてはいた日が土砂降りだったの。そうしたら足は洗えばいいって、靴を抱えて裸足で歩いた。もう、大笑いしましたよ(笑)」
中澤さんも若き日々を、
「毎日毎日テレビに出て、雑誌の取材を受けて。私も小林も徹夜続きだったけど、毎日が目新しいことの連続でお祭り気分。彼女も私も、面白がって働いていたの」