母の面倒見の良さを複雑に捉える娘
そんな中から、中澤さんのもうひとつの側面、すなわち保護司・中澤照子の人生が始まっていく。
ひとり娘の綾子さんが小学生のころだった。両親が共働きなのか、今でいう放置子のような子がウロウロしている。中澤さんは「家においで」と声をかけてはご飯を食べさせ、「なんかあったらまたおいでね」と送り出した。
街中で夜遊びや喫煙する子どもたちにも声をかけずにはいられなかった。あるときは「元気にしてる?」と声をかけ、あるときは「お腹すいていない?」と食事に誘ったという。
そんな中で誕生したものこそが、ゴロゴロ野菜と豚バラ肉で食べごたえ十分の、あのカレーだったのだ。
「更生カレーというけれど、最初はお腹をすかせている子の空腹を満たすために作り、たまたま出しただけのものだったのよ」
子どもだけに遠慮を知らない。20、30回ではきかない回数やってきては、中澤家でカレーを食べて帰っていく。
保護司になる直前の1998年には、夜中に緊急の電話連絡を受けたこともある。
「暴走族の子が死んだと、その子の友達から電話がかかってきてね。“誰々が事故にあって死んじゃった!”って。
私は死んだその子の名前も顔も知らないんだけど、仲間は私のことを知っている。声をかけたことがあったんだろうね。それで電話をかけてきて“何時ごろ来れますか!?”って。だから取りあえずお香典を包んで行って、遺影を見て初めて“あっ、この子が……!”って」
言うまでもなく放置子への食事もお香典も、家計からの持ち出しだ。夫の一弘さんは、
「困ったとか嫌だとかは、まったく思いませんでしたね。むしろ(頼りにされていることは)喜ばしいことだと思っていました。その後、妻は保護司として活動することになりますが、家族に精神的金銭的負担を感じさせたことは、1度もありませんでした」
中澤さんもきっぱりと言う。
「葬式に行くときに香典を包むのは当たり前。負担だとも嫌だとも思いませんでした。でも、親たちは何をしているんだろうとは思っていました。
夕方、他人の家でお腹いっぱい食べて帰ったら、家では食べられない。普通ならば“どうしたんだい!?”と聞くはずです。でもそうした流れがない。ということは、親がいかに子どもをほったらかしにしていたか……。だから私は、そういう子が家に来てくれて本当によかったと思う」
そんな中澤さんの活躍を、注目している人たちがいた。
“保護司になりませんか?”
近所の保護司の人から、そう声をかけられたのだ。
「“へえ~、そういう組織があるんですか?”って、びっくりした」
ちなみに保護司になると、対象者に月2回面接し、それが未成年ならば保護者とも月1回面接、報告書にして法務省に提出しなければならない。それを無償で行うのだ。
困った人を見捨てておけない中澤さんの性格を知り尽くしていた夫・一弘さんは、反対はしなかった。だがここで、思いがけない声が上がった。当時25歳だった娘・綾子さんが、保護司になることに異を唱えたのだ。
綾子さんが振り返って言う。
「小さなころから近所の子とか、私がまったく知らない子とかが家に来て、一緒にご飯を食べているのが普通でしたから、“そういうものなんだな”と疑問を感じることはありませんでした。でも、保護司になることに関しては絶対に反対でした。罪を犯した人たちが家に上がるわけですから“母や家族に何かあったら”と。
母がそれとなく“保護司になりたいんだけど”と匂わすたびに、“絶対やめて!”。何度も険悪なムードになったのを覚えています」
中澤さんも振り返る。
「娘は最後まで反対していましたね……。“犯罪をした人を家に入れるなんて、お母さん、信じられない”って。これは保護司を始めてからも、ずっと言っていましたね」
綾子さんの反対は、何よりも中澤さんの心に響いた。
「時間が許す限り娘の話を聞いて、子育てには手抜きはしていないつもりだけど、保護司になって何年かたったあとだったか、“お母さん、他人の子の話ばっかり聞かないで私の話も聞いて!”と。ハッとしたことがありました……」
反対し続けていた綾子さんだったが、最後にはあきらめにも似た気持ちで受け入れた。
その中で、綾子さんにも気がついたことがあったという。
「(家族が傷つけられるなど)心配しなくちゃならないようなことが1回もなかったんです。団地のエレベーターで怪しげな男性と一緒になって、同じ階で降り、同じ方向についてくる。“つきまといか!?”と思ったけれど、うちに来ることになっていた人でした(笑)。一瞬でも心配したことといえば、これだけですね」