終盤では、スクリーンの写真で施設の入居者を紹介。
たとえ認知症になっても、適切な支援があれば、ふだんと変わらない暮らしが可能な方もたくさんいることが伝えられた。
「どんな病もかかった本人がいちばんつらいでしょ。認知症だっておんなじ。“本人は何もわからないのだから周りの家族のほうがつらい”って言う人もいるけど、認知症になりたくてなった人はいないからね。まず、そのことを受け止めてほしいですね」
子どもが大人と同じことができないように、脳が病気に侵されている人も大人と同じことができない。まずは、そのことを理解して、手を差しのべてほしいと話す。
「そのためにも、もっと介護のプロを頼ってほしい。いろいろ厳しいことが起こるけど、自分たちだけで“親にくっついた認知症”と闘い、付き合っていくのは無理があります。ぜひ僕ら専門職を上手に使って、肩の力を抜いて認知症と向き合ってください」
瞬く間の2時間を終え、参加者は「ためになった」と同じくらい、「楽しかった」と言葉を残した。
「認知症になっても、なんとかなる」とメッセージを受け取ったからだろう。
認知症の高齢者や家族を支え続けて30年以上─。
類いまれなバイタリティーと人間力は、どうやって培われてきたのだろう。和田さんの人生をひも解いてみたい。
今でも覚えている、おかんの後ろ姿
人前で堂々と話す姿からは想像できないが、かつては「弁当をふたで隠して食べるような、内気な子だった」と振り返る。
1955年、高知県の山奥、大川村で生まれ、5歳のときに高知市内に移り住んだ。
家族は両親と3つ下に妹がひとり。家庭環境は恵まれたものとはほど遠かった。
「おやじさんは大工だったんやけど、山奥から出たとたん、酒と女に狂っちゃった。僕ら家族は食うもんにも困って、近所におかずを分けてもらってたそうやわ」
父親は女性を自宅にまで連れ込むようになり、耐えかねた母親は自殺未遂の果てに、家を出た。入れ替わるように、見ず知らずの女性が一緒に暮らし始めたという。
「家にいるのが嫌で資材置き場に行って、廃材で秘密基地を作って過ごしてた。寂しがり屋だから犬を拾ってきて一緒にいたり。星を見るのが大好きやった」
深刻な話題も、なんてことなく話すが、ポツリと口にした言葉に、悲しみがにじむ。
「おかんが出て行ったときの光景は、今も覚えてる。タクシーに乗って、後ろも振り返らずにさーっと行ったわ」
母親が戻ってきたのは、小学4年生のころだった。
一家は大阪に移り、再び家族で暮らし始めた。しかし、それも長くは続かなかった。
「翌年、おやじさんが亡くなってね。末期がん」
母親が一家の大黒柱として働き始めてからは、和田さんも新聞配達をしながら家計を支えた。
「勉強はせんかったなあ。友達とやんちゃして遊んだり、中学生になると、バイトで稼いだ金で鉄道を見に行くことに夢中になってたな。鉄のかたまりなのに、生き生きと走る蒸気機関車が大好きやった。幼いころ、蒸気機関車の基地の真裏に住んでたからかなあ」
鉄道の話になったとたん、子どものように目を輝かせる。