人と話すのが苦手だった
岩沢さんは、1934(昭和9)年3月、東京・江戸川区で生まれた。父親はプレス工場に勤務。5人きょうだいの2番目だったが、小学校4年の夏休み、現在の千葉県旭市の叔父の家に預けられる。
「あのころはみんな貧しかったから、悲しいとか寂しいという思いはなかったです」
当時は戦争の真っただ中。敗戦間際は小学校の校舎が兵隊の宿舎となっていたため、授業はお寺や神社でわずかな時間行われた。
「預けられた家には年上の従姉妹がいてね。彼女が両親に“善和は頭が悪いから学校で恥ずかしい”と話している会話を聞いちゃった。それでなにくそ、と思って勉強するうちに、中学3年生のときには成績が1番になったんです」
中学卒業後、東京・浅草の文房具卸・小笠原産業に就職する。従業員は20人ほど。
当時、クリップのような文書ばさみや、ガラス製のペン先などがよく売れていたが、それらを木箱に詰めて、リヤカーに積み、卸に配達する仕事をした。先輩が自転車をこいで引っ張り、岩沢さんが後ろから押した。
浅草から麻布、新宿、池袋など遠くまで配達した。歩きっぱなしでお腹はぺこぺこ。
「お昼ご飯用に会社が30円くれたかな。それで1個10円のコッペパンを買うんだけど、ジャムをつけると5円、それだと2個しか食べられないから、何もつけずに3個買って道端に座って食べてました」
夕方へとへとになって帰ってくるのだが、新人には自転車磨きが待っていた。その後キャリアを積み、営業の担当になる。
「ところが僕は人と話すのが苦手でね。青森、福島、神戸、山口などに出張に行きましたが、苦痛でしたね」
その弱点はずっと克服することができなかった。勤続20年を目前に、岩沢さんは会社を辞めることを決心する。
1968年、千葉県松戸市の6畳2間のアパートで創業。
その数か月前の5月、小笠原産業と取引があり旧知の仲だった上村喜松さん(故人)に自分のアイデアを打診してみた。
「上村さんはプラスチック製品を作っているから、会社に文具部門をつくって、私を雇ってもらえないでしょうか」
するとハッパをかけられた。
「20年近く、大きな会社で仕事をしてきたんだろ。独立して自分でやりなさい」
「そう言われましても、貯金がありませんから、電話一本引けません。無理です」
当時は電話を設置するのに20万円もかかった。消極的な岩沢さんに上村さんは、力強くこう語りかけた。
「大丈夫だ。いいか、10円でノートを買ってきなさい。うちの会社の電話番号を君の会社の連絡先として使っていいよ。君あての電話を、うちの事務員に聞かせて、用件や相手の電話番号をノートにメモしておくよ。それをもとに君が折り返し電話をすればいい。1年間、いくら電話を使ってもいいからな。頑張れ!」