義足の人を走らせたい
日本初の挑戦だ。身近にお手本はない。試行錯誤の日々が続いた。
「義足先進国のアメリカやドイツの文献に載っている写真を、それこそ穴があくほど眺めては、構造を理解しようと必死でした」
就業時間内は本業の生活用義足を作るので、スポーツ義足に取り組めるのは、夜になってから。それでも寝る間も惜しんで打ち込んだ。
「義足の人を走らせたい!」、その一心だった。
待望の試作品1号が完成したのは、2か月後のこと。
最初の試走者に選ばれたのは、「度胸がある、タカちゃん」こと、任田孝子さん(55)。当時、20代半ばだった。
「ハハハ、おてんばだったので、『やる!』って二つ返事で引き受けました。臼井さんに教わって、足を思い切り、ぽん、ぽんて踏み出したらすぐ走れたんです! 小走りだけど、気持ちよかった。4歳で足を失ってから、走る感覚を初めて味わえました」
孝子さんは、その後、結婚や出産で走ることから遠ざかったが、最近、再び走り始めたという。
「東京オリンピックの聖火ランナーに応募したのがきっかけだけど、子育てが終わって、また走りたいって思ったのは、初めて走れた感動が忘れられなかったからですね」
孝子さんが試走して以来、「タカちゃんに続け」とばかりに、次々と患者たちがスポーツ義足に挑戦。その走りを研究し、臼井さんはさらに義足を進化させていった。
義足ランナーの練習会を立ち上げたのもこのころ。
5人からスタートしたメンバーは年々増え、10年たったころ、パラリンピックの出場選手を輩出するようになっていた。
2016年リオパラリンピック。満員の観客が見守る中、女子100メートル決勝に臨んだ日のことを、大西瞳選手(43)が振り返る。
「私、すごく緊張しいで、国内の大会でもスタートラインにつく間に吐き気をもよおすほど(笑)。リオではどうなることかと本気で心配でした。でも、緊張するどころか、会場の大歓声を浴びて、ああ、夢が叶うってこういうことだって、心から楽しんで走ることができました」
23歳のときに感染症が原因で、右足を太ももから切断した大西選手は、臼井さんとの出会いから、パラリンピックへの道が開けたという。
「『走れるようになると、きれいに歩ける』って臼井さんに誘われたのが始まりでした。先輩ランナーのカッコよく走る姿を見て、当時抱えていた義足のコンプレックスもなくなり、私の義足を見て!って思えるほど、走るのが楽しくなっていったんです」
学生時代に陸上部だった大西選手は、タイムもめきめきアップ。2008年、北京パラリンピックを観戦し、「いつか私も!」と心を決めた。