祖父から父へ、家業を守るバトン

 養蜂一筋の西垂水家だが、もともと、祖父・正さんの実家は鹿児島県知覧町(現在は南九州市)でお茶や煙草の葉などを作っていた農家。昔はその一帯も養蜂が盛んで、福岡から複数の転地養蜂家が蜜を採るため鹿児島に降りてきていた。

 そのなかのひとりに弟子入りした正さんは、滋賀や青森、北海道をついて回り、転地養蜂のいろはを教わった。そして、兄の泰三さんとともに独立。スタート時に師匠から受け継いだ10~20箱の蜂を2人で力を合わせて少しずつ増やし、それぞれが創業。

 正さんが西垂水養蜂園を創業したのは1960年。'73年には栄作さんが生まれた。'70年代から'80年代にかけて養蜂業界は、知覧町だけでも全国から50、60人の養蜂家が集まる最後の黄金期に突入。少年だった栄作さんはちょっとした優越感を感じていた。

「10歳前ぐらいから、飛行機で北海道に手伝いに行っていたんだけど、当時は小学生で飛行機に乗ること自体が珍しかったから、『おまえ、すごいな!』みたいな。だけど、家を継ぐつもりはなかったし、中学生のころは料理人になりたくてね。私立の高校に行きたいと言ったら、『そんな必要はない。公立に行け』と。あてもなく地元の水産高校に進みました」

「同じ家畜でも牛や豚のように名前を呼んだり、懐いたりなんて当然ないんです。でも、ツンデレ、いやツンしかないけど、いくら刺されてもやっぱ可愛いんすよねぇ(笑)」と栄太さん 撮影/伊藤和幸
「同じ家畜でも牛や豚のように名前を呼んだり、懐いたりなんて当然ないんです。でも、ツンデレ、いやツンしかないけど、いくら刺されてもやっぱ可愛いんすよねぇ(笑)」と栄太さん 撮影/伊藤和幸
【写真】鹿児島→北海道の3600キロの移動を終え、大量の蜜箱を下ろす一家の一場面

 情報通信科に入った栄作さんの周囲には、将来の目標を定めて勉強に励む生徒が複数いた。彼らの大半は在学中に無線の免許を取得し、航空局やNTTといった人気企業に就職を決めていったという。

「俺は遊んでばかりだったから、そういう同級生を間近で見て『俺は何のためにこの高校にきたんだろう』と思ってね。当時はバブル真っ盛りで、求人も多かったけど、自分は特に無線をやりたいわけじゃない。そこで初めて、『オヤジと一緒にハチミツ採るのも面白いんじゃないか』と思ったわけ」

 今まで1度も跡を継ぎたいと口にしなかった次男坊の心変わりに、西垂水家では緊急家族会議が行われた。

 その後、家に入って1、2年で、「この仕事、面白いじゃん!」と開眼。時を同じくして結婚し、20歳で栄太さんの父になった。

 とはいえ、栄作さんの養蜂家人生は決して順風満帆だったわけではない。初めて、正さんから離れて秋田の採蜜を任されたときは、朝から晩まで夫婦で働くものの同業者の半分ほどしか蜜を採ることができなかった。必死で作業をするも、「そんなことも知らないのか」と同業者にあきれられる始末。

「もう、悔しくて涙が出たよね。そこから地元の人の手を借りるようになって、本当にラクになったんです。今では、各地に手伝ってくれるメンバーがいるんですよ」

 何十年に1度、ほとんど蜜が採れない年もあった。自然に大きく左右され、苦労が多いわりに当時の北海道のハチミツの単価が低い問題もあった。鹿児島のれんげ一斗缶の値段に対し、質では負けない北海道の百花蜜が3分の1程度にしかならないことも。

「北海道の蜜はたくさん採れるから安かったんだけど、鹿児島からそれなりの経費をかけて行くのにだよ? そんなバカな話はないわけで、『いつか、このハチミツを3倍の値段で売りたい』と同業者に話したら、『お前はアホか!』って大爆笑されたもんね」

鹿児島から北海道へ。移動を終え、蜜箱を下ろす場面 撮影/伊藤和幸
鹿児島から北海道へ。移動を終え、蜜箱を下ろす場面 撮影/伊藤和幸

 バブルの時期、キツい、汚い、危険な仕事を指す「3K」という言葉が生まれ、敬遠される傾向にあった。自ら養蜂を「3K」という栄作さんは、このままでは業界自体が衰退すると危惧。また、外国産の安いハチミツが流入し、国産ハチミツが押され始めていた。

 栄作さんは問屋との金額交渉に乗り出し、北海道のハチミツの単価を引き上げることに尽力。さらに、作業効率を上げるためにリフトを導入し、そのための倉庫も新たに建てた。