1万人近い死者を出した横浜大空襲を経験

 奥村さんには、競技前にこぶしで胸を3回叩くというルーティンがある。

 1回目は亡き両親、2回目は肇さんと息子の由多加さん、そして3回目には李コーチや工藤薬剤師など、自分を支えてくれている人への感謝が込められている

 何げない所作でありながらその後の競技の優劣を左右する、競技者にとり重要な仕草がルーティンだという。

 そして、胸を叩くたびに、奥村さんは肇さんからの“俺のことはいいからやれ”という言葉を思い出す。

 悲しい顔だけが、亡き人への思いを表すものではない。思いの表現は人それぞれ。こうした表し方もまた、あるのだ──。

世界大会の金メダルは宝物。「開催国によってデザインが違って面白い」と奥村さん 撮影/渡邉智裕
世界大会の金メダルは宝物。「開催国によってデザインが違って面白い」と奥村さん 撮影/渡邉智裕
【写真】すごすぎる! 世界大会で40kgのバーベルを持ち上げる奥村さん

 90歳にしてこの元気、この気っ風のよさを誇る奥村さんは、1930年7月7日、七夕の日に生まれ、神奈川県横浜市の観光名所としても名高い外国人墓地のすぐ近くで、母方の祖父祖母と母親のもと育ったという

「勉強なんてしたことない子でしたよ(笑)。男の子と一緒になって木登りしたりね。父は日本ビクターに勤めていてね、今で言うアフター5にピストン堀口(往年の名ボクサー)のジムに行ってました。

 だから筋肉質の素晴らしい身体をしていて、真っ先に戦争に引っ張られたずうーっと戦争でしたから、父と一緒に暮らしていましたけど、父親の愛って私、知らないんですよ

 1万人近い死者を出したとされる1945年5月29日の横浜大空襲も経験した。

「山手の一段下に家を借りていたんですけど、すごいですよ、下は火事でボウボウ、上からは焼夷弾が降ってくる。そのときに空襲にあって、私の友達が3人ぐらい亡くなっています、機銃掃射で。

 それにもあわずにこうやって元気に過ごせたというのは感謝ですよ。

 私は思うんですね、あのときも、神さまが生かしてくれたんだから、命ある限りがんばらなくちゃいけないってだから私は雨の日は表に出ない。滑って転べばおしまいだから

 戦後の1954年には、24歳で山手警察に勤めていた人と1度目の結婚。離婚後の1967年、37歳で神奈川県座間にあったアメリカ陸軍の座間キャンプに職を求めた。

「座間キャンプの憲兵隊にいた野口さんという人がいて、“奥村さん、うちで欠員が出たんだけど来ないか?”と言われたんです。

 私、即座に言いましたよ。“ダメだ”って。だって私の時代は英語を話すと国賊と言われていて、英語の“え”の字もわからなかったんだから」

 だが野口さんは諦めない。数週間後、またやってきては、こう言って口説いてきたという。

“やってみもしないでできないとはなんだ!?”と“やってみて、努力してできなかったらできないと言え!”と

 私も負けず嫌いだから、その言葉が頭にきた。“よーし、そんなこと言うんならやってやろうじゃないか!”って