「私に言わせると最高の人」夫との出会い
配属されたのは米軍兵たちとじかに接するカウンター。兵士たちから名前や階級、所属などを聞き出し乗っていた車や銃などを登録するのだ。
「それを聞きながらタイプを打っていくんです。英語できない、タイプ打てない状態でやるんですから3年、苦労しましたよ。毎晩見る夢は英語でしたね(笑)」
奥村さんの何事にも積極的に取り組んでいく姿勢はこのころから変わらない。
米兵に話しかけ、嫌でも会話をしなければならない状況に持ち込む。そのときの返答を覚えておき、後日応用することで英語を覚えていった。
当時、座間のキャンプは語学の昇給制度があり、合格すると基本給が10~30%も加算された。座間に来て3年後、試験を受けたら見事、合格、基地内事務が英語でこなせるという『グレード3』を取得することができた。
「“人間、努力すればできるじゃないか”と思いましたね。このときの経験から私はやってもいないのに“できない”とは言わないようになったんです。とにかく、なんでも積極的にチャレンジしてみることにしました。
だから野口さんの“やってみなきゃわからないだろう”という言葉は、その後の私の人生に大きな影響を与えたひと言だったと言えますね」
街に『およげ!たいやきくん』が流れ、オリンピック女子体操でコマネチ選手が10点満点の演技を次々と繰り出していた1976年、奥村さん46歳の年、座間キャンプで働いていた奥村さんに、思いがけないことが起こった。
「人員整理があったの。もっと(座間での仕事を)やりたかったんですけどねえ……」
だが、これが「私に言わせると最高の人。ケンカもしたことない」と言わしめた、夫・肇さんとの出会いを生む。
知人が中古自動車の販売工場を始め、人員整理でヒマを持てあましていた奥村さんに“遊んでいるなら、働かないか?”と持ちかけたのだ。
中古車の販売には修理は欠かせない。知人の販売工場のすぐ前にあったのが、肇さんが経営していた板金塗装工場だったのだ。
「それで向こう(肇さん)が声をかけてきた。1年ぐらいは仕事の話ばかりでしたけど、でもまさか結婚までするとは考えていませんでしたね」
以来、前述したとおり、夫唱婦随ならぬ婦唱夫随(?)で、ケンカひとつしたこともないほど仲のよい夫婦としてやってきた。肇さんのリタイア後には、ゴルフ目的で伊豆の宇佐美に転居、仲間を交えてプレーしては、夫婦で楽しんだという。
だが、そんな相思相愛のスポーツ好き夫婦にも、人生の荒波は情け容赦なく襲ってくる。