スニーカー販売で年商2億円
ナイキ・エアマックス95──。'90年代半ばに発売され、日本中で大ブームになった、伝説のスニーカーだ。
それまで鈴虫を売っていた山崎さんが、突然スニーカーを売ることになったのは、「スカウトってやつ!」だという。
行きつけの韓国料理店のマスターに、商売を持ちかけられた山崎さん。「これはイケる!」とピンときた。
「韓国のナイキ直営店で、目当てのエアマックスを買って、日本で売る商売でした。なぜ韓国かっていうと、日本より先行発売されるから。日本で販売になる前に、売ることができるってわけです」
商売のカンは的中した。
フリーマーケットを皮切りに、若者向けの雑誌に広告を掲載。通販で商売を始めたところ注文が殺到し、仕入れたそばから完売した。
「大ブームになってからは、相場も一気に跳ね上がってね。1足1万円で仕入れたスニーカーが、3万、5万で飛ぶように売れました」
収入も一気に増え、生活も一変した。
「居候生活を脱して、自分の名義で都心にマンションを借りてね。家賃は確か、30万くらい。車も、中古だけど、憧れだったスポーツタイプのベンツを買って、うれしくって乗り回してました」
2~3年の間で、実に2億円を売り上げた。仕入れ値、広告費などを引いても、1億円もの大金が手元に残った。
「それで、ビジネスなんてチョロイもんって、甘く見ちゃったんです。会社を作って、原宿にアパレルの店を出したんだけど、そのころにはスニーカーのブームも終わって。輸入物のTシャツを売ったけど、大赤字でした」
月に80万円もの家賃と人件費が重くのしかかり、数年で貯金は底をついた。
翌月の給料の支払いもままならない。瀬戸際に追い込まれていた。
そんな折だった。山崎さんのもとに再びビジネスの話が舞い込んだ。
「常連だった喫茶店の店主から、『もうトシだから引退したい。店を引き継がない?』って声をかけられたんです」
時は2001年。スターバックスが日本に1号店を出し、カフェブームが始まろうとしていた。
神宮前という好立地にもかかわらず、家賃が30万円と割安だったこともあり、山崎さんは、原宿の店舗を閉め、カフェの経営へと舵を切った。
「相棒が料理上手だったので、ニューヨーク風のカフェにしようと。開店資金は彼女のお父さんに借金しました。場所柄、芸能事務所やアパレル関係のお客さんが、常連になってくれました」
評判は上々だった。けれど、収支はトントン。早朝から深夜まで働き詰めでも、経営はラクにならなかった。
「そのころ、やっと気づいたんです。カンと勢いだけの素人経営じゃダメだ。ちゃんと勉強しようと」
行動力は折り紙つき。
さっそく渋谷区の商工会議所が主催する起業家のための講座、『チャレンジ塾』に通い、経営のいろはを教わった。
「私、事業計画書や原価計算すら知らなかったんです。店のバイトだって、ノリと勢いで、『いいよ、おいで』って雇ってた。これじゃ、もうからなくて当然ですよね」
半年間、週1度の講座に欠かさず出席し、経営のノウハウを叩き込んだ。
受講生でただひとり、皆勤賞だったことで、500万円の融資を半額の利息で受ける権利も得られた。
「それを元手に、カフェ事業のひとつとして、イベントやパーティーに軽食を配達する、ケータリングサービスを始めることにしました。当時の日本には紙やプラスチックのおしゃれな容器がなかったので、開店前にアメリカに視察に行ってこようと」
向かったのは、知り合いが暮らす、ポートランド。
視察にことのほか手間取り、滞在期間が延びた山崎さんは、たまった洗濯物を洗いにコインランドリーに行った。そこで運命の出会いを果たす。