「私は生まれてきては困る存在だったんです」生後すぐに児童養護施設に預けられ、3歳で引き取られた先では養父のひどい暴力とギャンブル依存症でどん底の貧乏生活を送った。だが、そんなつらい境遇にこそ、「お客さまに喜んでもらうこと」に徹底的にこだわる経営者の原点があった。
某日の、昼12時半──。
名古屋市中区栄の宗次ホールで、観客たちが家路につこうとしていた。『いつまでも聴きたいギターの調べ』と銘打たれたランチタイムコンサートが、ちょうど終了したところなのだ。
「よくぞ人間に生んでくれた。それだけで幸せです」
宗次ホールは、『くらしの中にクラシック』を理念とするクラシック専門の音楽ホール。玄関には、観客ひとりひとりに「ありがとうございました」と丁寧に声をかける、きまじめそうな初老の男性が。
同ホールでは年間400回ものコンサートが開催されるが、ほぼ毎回、「いらっしゃいませ」と観客を迎え、「ありがとうございました」と言って見送る。
その様子を見ていたわれわれ取材陣に、この男性の秘書を務めている中村由美さんが、いたずらっぽい顔で語りかけた。
「宗次を知らないお客さまのほとんどは、ホールのスタッフと思うようです(笑)」
男性の名は宗次徳二(むねつぐ とくじ/72)。※「徳」は正しくは心の上に一が入ります
全国におよそ1300店舗を有し、店舗数が世界一として“世界でもっとも大きいカレーレストランチェーン”とギネス世界記録にも認定された『カレーハウスCoCo壱番屋』の創業者。経営を引退したのち、この宗次ホールを創設してオーナーとなった人物である──。
店舗数世界一のカレーチェーン網を作った男性の人生は、1948年、逆境のもとで始まった。石川県で生まれた直後に、当時は孤児院と呼ばれていた兵庫県尼崎市の児童養護施設に託されたのだ。
宗次さんが語り始める。
「私は、私生児として生まれました。この世に出てきてもらっては困る存在だったんです。だからよく言うんですよ。“よくぞ人間に生んでくれた。それだけで幸せです”と。私の人生はそこからのスタートでした」
3歳のとき、尼崎で雑貨商と貸家業を営んでいた養父母のもとに養子として引き取られた。裕福で幸せそうな一家の写真がいまも残っている。
「だから孤児院は“幸せな子だな”と送り出してくれたんだと思うんだけれども、養父が競輪に狂ってしまって。そこからが食べることにも事欠く、私の本当のどん底生活の始まりでした」
一家の大黒柱が収入のすべてを競輪につぎ込んだからたまらない。宗次家はみるみるうちに財産を失っていき、夜逃げ同然で岡山県玉野市に移り住むことになってしまった。
宗次さんは養父に手を引いて連れて行かれた同地の競輪場で、“車券拾い”をしたことをいまも覚えている。
競輪に負けた人たちが、ヤケになって車券を投げ捨てる。それを拾っては、当たり車券がまじっていないか確かめるのだ。
養母は魚の行商で必死になって家計を支えた。だが、手元に200円もあれば、夫はそれを握りしめ、競輪場へと向かってしまう。
1955年、宗次さん小学校1年のある日の夕暮れ、養父から棒でひどく殴られている養母を目の当たりにした。
「その日を境に母が家を出て行ってしまったんです」
父子ふたりだけの、極貧生活の始まりだった。
「電気代が払えないから、電気がなくてロウソクの暮らし。お米もないから自分で小麦粉を水で溶いて、塩で味つけし、焼いて食べたり。時には、食用になる雑草を食べましたね」