例えば、診断名のつくレベルでなくても、スマホやSNSを見るのがやめられなかったり、エナジードリンクをつい何本も飲んでしまったり、激辛フードを食べてストレスを発散したり、自分を見失うほど振り回されるような危険な恋愛やセックスにのめり込んだりなど、あまり適切でない方法で日々の生きづらさをやり過ごしている人はいくらでもいるだろう。
そんな人が、死にたい気分に襲われたとき、自分を消したくなったとき、自暴自棄になったとき、たまたまお酒でその苦痛が一時的に緩和されたら、アルコールや薬物などの精神作用物質にのめり込んでいったかもしれない。仕事で大きな失敗をして落ち込んだあとに、ビギナーズラックでパチンコに大当たりしたら、ギャンブルにハマっていたかもしれない。
では、日常的に続くパワハラで上司に怒鳴られた帰りに、満員電車で女性のお尻に偶然手が当たった感触や、そのときの脳に電撃が走るような興奮が忘れられなくなったら? 職場で孤立していた人が、駅の階段で何となく女性のスカートの中が見えてしまい、周囲に誰もいないので恐る恐るスマホを向けたら隠し撮りに成功し、何とも言えない達成感で満たされてしまったら?
性欲の強さやもともとの性癖に関わらず、盗撮や痴漢にハマってしまう可能性は誰にでもあると考えていいのではないだろうか。
性犯罪に耽溺するのはなぜ男性ばかり?
しかし、そうは言っても、ほとんどの男性は「自分は盗撮や痴漢なんてひどいことは絶対にしない」「性犯罪に興奮するような異常な性癖はない」と思うだろう。そんなことをするのは異常な性欲を抱えた、非モテの特殊な変態だけに違いないと、自分とは切り離して考えたくなるのも無理はない。
だが、それならなぜ性依存症、特に盗撮や痴漢といった性犯罪に耽溺するのは男性ばかりなのだろうか。これについて本書は、男性にとって極めて受け入れがたい不都合な真実を突きつけてくる。
本書によれば、盗撮加害者をはじめとする性犯罪者は、自らの問題行動を正当化するための「認知の歪み」と言われる偏った捉え方を共通して持っているという。その言い分は、「相手に気付かれずに盗撮しているんだから、誰も傷つけていない」「スカートをはいているということは、盗撮されてもOKということだ」「痴漢に比べたら、直接触るわけではないから大したことではない」など、呆れるほど自分勝手なものばかりだ。
しかし、こうした考え方は、彼らがオリジナルで生み出したものではなく、日本社会にもともとあった「男尊女卑的な価値観」を学習し内面化した結果にすぎない、と斉藤氏は述べる。
「社会通念として男尊女卑的な価値観が広く共有されている社会では、ただ普通に暮らしているだけで、知らず知らずにその価値観を内面化してしまいます。性犯罪者や依存症者でいえば、彼らの認知の歪みは、社会全体に男女の非対称性が色濃く残る日本社会全体の価値観を反映しているだけ、ともいえるのです」
例えば、「そんな短いスカートだと痴漢/盗撮に狙われるぞ」と、まるで被害に遭う女性に落ち度があるかのような注意喚起や、「痴漢・盗撮に注意!」と女性にばかり自衛を求めるポスターは街に溢れている。
子ども向けの漫画やアニメでは、男子が女子の浴室や更衣室をのぞく行為が「ちょっとした出来心」や「思春期なら当然のこと」として描かれ、のぞかれた女子のリアクションも、顔を赤らめて「もう、エッチ!」といった程度で済まされてしまう。
また、痴漢や盗撮などの性犯罪は迷惑防止条例や軽犯罪法でしか取り締まれないことが多く、その罪状や刑罰の軽さゆえ、時に警察や司法関係者からすらも「しょせん痴漢/盗撮」といった態度で扱われることがあるという。
性犯罪者は、社会のこうした空気を敏感に感じ取って、自らの問題行動を正当化する。しかし忘れてはならないのは、私たちも普段、彼らと同じメッセージを受け取りながら無自覚に生活しているということなのだ。