有名な問題児から不登校へ

 目を開けると、自分の部屋の天井が見える。吉藤さんは、時間を刻む時計の針の音を聞きながら、何時間もただじっとその天井を見つめていた。

「こうして何もせずに過ごしているだけの自分を必要としてくれる人なんて誰もいない。僕が生きていることは迷惑なんじゃないか」

 小学校5年生から中学校2年生の途中までの3年半。1人で家にいると、時間は永遠に続くように感じられた。

 中学生のころ、夢遊病のようにもなった。夜中、気がつくと村の神社の池の前に立っていたこともある。

「やばい俺、死にたがってる」

 死にたくない。なんとか生きなきゃ。そう思っても身体は重い。将来のことを考える余裕もない。あたりに充満するカエルの鳴き声。月明かりに照らされた田んぼの脇を、ジャージ姿でふらふらと家に帰る。そんなときも、父がそっと後ろからついてきて、声もかけず見守ってくれた。

 幼いころから風邪をよくひいた。胃腸炎や副鼻腔炎、お腹が痛くなることも多かった。学校は嫌いではなかったが、体育も勉強も苦手。休み時間のドッジボールも、制服も嫌だった。

 小学校のころは何も考えず本能のままに動いていた。授業がつまらないとじっと座っていられず、立ち歩くと副担任に手をつかまれる。それを振り払って窓から逃げる。そこからは先生との鬼ごっこやかくれんぼだ。運動場の側溝に隠れたこともある。職員室でも有名な問題児だった。

「吉藤は、ハサミと紙とテープを渡しておけば大丈夫」

 机の上でジオラマを作ってさえいれば、授業中、静かに席に座っていることができた。

「低学年のころは祖父母に教わった折り紙や工作が得意で、それを面白がってくれる友達がいたんです。『ワクワクさん』や『博士くん』と呼ばれて慕われていた時期もありました」

 高学年になるにつれ、一緒に遊んでくれたクラスメートは思春期に入り、どんどん成長していった。教室で折り紙やロボットを作っても誰も興味を持たなくなり、いじめられるようになった。

 素手ではかなわない。武力がないから武器を使ってやり返し、わざと大ごとにした。大ごとにすれば職員会議が開かれ、自分の言い分も聞いてもらえる。父と母はそのたびに頭を下げて回った。

 不登校の大きなきっかけは小学校5年生のとき。原因不明の腹痛の検査入院で、ほんの数日入院したことだった。

「今考えればストレス性の腹痛ですが、当時はストレスによる体調不良を認められる時代ではありませんでした。運の悪いことに、その入院直前、一緒に住んでいた大好きだった祖父ががんで亡くなった。さらに、私が検査入院をしたことで、学校行事で唯一活躍できるお楽しみ会にも参加できなくなってしまった。学校に戻りづらくなったんです」

 両親は、そんな吉藤さんにどう接していいかわからなかった。暮らしていたのは父の地元、奈良の小さな村。父は中学校の教員だった。嫁いできた母は肩身が狭かっただろうと吉藤さんは振り返る。

「担任の先生が家に来て、こたつに隠れている私をパジャマのまま担ぎ出し、車に乗せて学校に連れていかれた時期もありました」

 保健室や職員室に登校していたことも、資料室で折り紙を折っていたこともある。それはそれで居心地がよかった。でも、それを許さない先生に教室に引っ張り出された。教室では、クラスメートに「あれ、なんで吉藤いるの?」と言われた。そこに自分の居場所はなかった。以来、学校に行かない日が増えていく──。