鮮烈デビューを飾るまで
椎名さんは1944年、東京都世田谷区三軒茶屋上馬に生まれた。公認会計士の父・文之助と、母・千代の三男だった。
6歳で千葉県・酒々井を経て幕張に転居。そこで過ごした少年時代を新刊の『幕張少年マサイ族』で描いている。
作中にこんな描写がある。
《あのころのぼくたちも浜番(浜を見張る老人たち)みたいにみんな竹の棒を持っていた。[略]後年、作家の取材仕事でアフリカに行ったとき、ケニアやタンザニアなどでマサイ族をよく見た。彼らは背が高くて鋭い目をしてみんな長い槍を持っていた。それはすぐに少年の頃に常に恐怖のマトでもあった海の浜番の記憶につながっていった。》
「これは東京新聞の千葉版に3年近く連載したものをまとめた一冊で、続編の連載が始まっています。中学のころを書いているんだけど、いちばん思い出したくない、荒くれた時代。誰でも中学時代というのは定まらない、苛立たしい時代じゃないですか。それを今、書いているんです」
地元の幕張中学校を経て、千葉市立千葉高校に入学。そこで同じクラスになったのが後年、コンビを組むことになるイラストレーターで絵本作家の沢野ひとしさんだった。
18歳のころから8ミリカメラを手にし、友達を集めてニュース映画を作るようになった椎名さんは、'64年、東京写真大学に入学。沢野さんの紹介で、友人で弁護士の木村晋介さん(76)と初めて会ったのも、このころだ。
木村さんが振り返る。
「沢野が僕に会わせたいやつがいると言って、連れてきたのが椎名でした。彼の第一印象は、天然パーマ、色黒で野性的。僕らみたいな色白もち肌の東京モンからすると異質な存在でしたね。でも魅力的なやつで、人集めがうまい。50人くらい集めていろんなイベントを考え出して遊んでいました。幕張の埋め立て地で地域対抗野球大会をやったり、文化祭みたいなこともやってたね」
1年で写真大学を中退、椎名さんは江戸川区小岩のアパートで、沢野さん、木村さんらと共同生活をするように。
木村さんが続ける。
「陽がまったく当たらない暗いアパートでしたね。6畳一間に4人で雑魚寝してました。僕は本来、司法試験の勉強をしなきゃならなかったんだけど、椎名たちと一緒にいるのが楽しくて、つい同居しちゃった(笑)」
そして、椎名さんはのちに妻となる渡辺一枝さんと出会う。仲を取り持ったのは、木村さんだった。
「彼女は僕と高校の同学年で、隣のクラスでした。3年のとき、僕が生徒会長で彼女は副会長だったんです」(木村さん)
'66年、椎名さんは流通業界専門誌で働き始める。2年後の'68年、一枝さんと結婚。
椎名さんが少し照れたように言う。
「彼女は、中学では山岳同好会、高校では山岳部でした。あだ名は、ヤマンバやチベット。その当時からチベットに憧れていたんですね。山の話や冒険、探検などの話が合ったんで、なんとなく……」
会社勤めの傍ら、沢野さんらと野外天幕生活団「東日本何でもケトばす会=略称・東ケト会」の第1回合宿を行う。これが、椎名さんの代表作のひとつ、「怪しい探検隊」シリーズの発端だった。
'69年には、百貨店業界の専門誌『ストアーズレポート』を創刊し、編集長に就任。その年に入社してきたのが、椎名さんの“盟友”となる目黒考二さん(75)だった。
目黒さんが打ち明ける。
「初めて彼と会ったのは、銀座の喫茶店。三つ揃いを着た大男でとても堅気には思えなかった(笑)。僕は数か月で会社を辞めちゃうんだけど、椎名とは読書の趣味が合ったんですね。2人ともSF好きで。SFの話がしたくてよく会ってしゃべってましたよ」
目黒さんは、『ストアーズレポート』に書いた椎名さんの文章に衝撃を受けたという。
「破茶滅茶なショートショートで、題名は今では出せない『キ○ガイ流通革命』。抜群におもしろくて、“この人は作家だな”と思いましたよ」
'76年、『本の雑誌』を創刊。書評を中心に、活字にまつわるさまざまな話題を扱い、注目を集めた。そして'79年、そこに連載していたエッセイをまとめた『さらば国分寺書店のオババ』を上梓、鮮烈なデビューを飾る。
椎名さんによれば、
「出版社は思いきって新聞に全面広告を出して、それで売れて増刷が続いた。あの本は物書きとしてのデビュー作であるだけでなく、初めてのベストセラーになったんです」
このデビュー作をきっかけに、さまざまな雑誌から原稿依頼が殺到するようになった。'80年、15年勤めたストアーズ社を退職しフリーになると、本格的な作家活動を開始する。「ずんがずんが」「ガシガシ」……。軽妙な口語調の文体は「昭和軽薄体」と呼ばれ一大ブームを巻き起こした。