京大を首席で卒業し、学生結婚
1937年、京都生まれ。
医師の父親と教師の母親のもと、3人きょうだいの次男として育った。
「私は日華事変の直後に生まれまして、父はすぐに軍医として中国に徴兵されたそうです。以来、6年間、戦地の父に代わって、母が女手一つで育ててくれました」
戦時下で食糧が乏しく、栄養状態も悪い時代。ジフテリアや疫痢、コレラなどの感染症で命を落とす子どもが後を絶たなかった。
家森先生も、生後間もないころに感染症を患い、命を落としかけたという。
「肺に膿がたまる、当時は助からん病気でした。母は、なんとかせなと駆けずり回り、ようやく勤務先の学校に保健指導で来ていた京都大学のお医者さんにたどり着いたんです。それで、ドイツから入った試薬を使ってみましょうと。このお薬が効いて、命拾いできました」
母親は折に触れ、命の恩人の医師の話、医学の素晴らしさを家森少年に聞かせた。
「医者になって、人を助けたい」、少年はごく自然に医学の道を志し、初志貫徹で天下の京都大学医学部に合格した。
それも、「入試のときに2番だったのが悔しくて、首席で卒業した」ほどの、頭脳明晰ぶりで。
学業だけでなく、大学、大学院時代は、馬術部に所属し、キャプテンも務めた。
そして、ここで運命の出会いを果たす。
「私の命の恩人である、お医者さんのお嬢さんが入部してきたんです。それが、うちの家内です」
1960年代の当時、最難関の京都大学に女性が入学すること自体珍しい。馬術部でも紅一点の存在だったという。
妻で医師の、家森クリニック理事長・家森百合子さん(80)が話す。
「当時の馬術部は、オリンピック選手を輩出するほどで、指導も兵隊さんの馬術みたいにスパルタでした。女性部員はみな、落馬すると怖がってやめてしまったんです。でも私は、男とか女で線引きされたくなかったので、朝から馬の寝藁(ねわら)を準備する力仕事も平気な顔でやってましたね」
負けず嫌いで、自立心旺盛。
そんな百合子さんに魅かれたのは、偶然目にした献身的な一面だったと、家森先生が照れながら話す。
「馬術部は男所帯で、宿直室の布団もボロボロでした。それを家内がせっせと繕っていたんです。その姿を見て、まあその、なんといいますか、結婚するならこの人だと」
一途な思いは百合子さんに届き、家森先生が大学院を卒業するころに結婚した。
百合子さんに決め手を問うと、「そうですね」、しばし考え、ざっくばらんに答える。
「誠実さ。それから、並外れた研究への熱意ですね」
そう、研究に明け暮れる家森先生は、誰よりも心強い理解者を得たわけだ。
家森先生が話す。
「3人の子どもにも恵まれましたが、私はまったく子育てをしていません。脇目もふらず研究に没頭できたのは、家内のおかげです」