井村コーチの言葉が人生の指針に
誰にでもにこやかに話しかける二村さんからは、想像もできないが、幼いころは人見知りで気が弱かったそうだ。
「2歳下の妹は寅年で負けん気が強くて、長女の私はいてるか、いてへんか、わからへんくらいやったって(笑)」
水泳を始めたのは小学2年生のときだ。勉強はできるのに体育はダメ。しかもプールが怖くて、お腹が痛くなるほど。無理やり、浜寺水連学校に連れていかれた。
「母は“水に放り込んでやってください”と言うたらしいけど、私はもう、イヤでイヤで。母が怖かったから、しぶしぶ泳いでいたけど、本当は好きじゃなかった(笑)」
同校は日本のシンクロの発祥地であり、日本代表選手を輩出している。中学生になるとき、友達に「一緒にやろう」と誘われて始めた。
最初は楽しかったが、徐々に厳しさを増す。チームはA~Eまであり、二村さんはCチームで3年ほど足踏みした。
「そのころ白髪がブワーッと出てきたんです。プールのカルキの影響もあるかもしれないけど、精神的にすごく追い詰められていたんやろうね。約4分間あるチームの演技は全員で絶対に合わさないといけない。水中でグッと息を我慢せなあかんときに、苦しくて自分だけ“ハアーッ”と水面で息を吸ってしまう。そんな夢を見て夜中に目が覚めるんです。選手をやめてからも、その夢は何度も見ましたね」
それほどつらい環境下でもなぜやめなかったのか。答えはシンプルだった。
「上に上がりたいという気持ちもあったんですよ」
Bチームに上がると、井村雅代コーチの指導を受けることができた。後にシンクロがオリンピック種目になると、日本代表を率いて何度もメダルを獲得し「シンクロ界の母」とも称された人だ。
「私は身長158センチと選手の中では低いから、先生には“人の倍、努力せなあかん”と。母も100点取ろうと思ったら120点の勉強せなあかんという人だったけど、母より怖かったですね、井村先生は(笑)。
でも、頑張ったら報われるというか、公平なんですよ。みんなを平等に見てくれるので、うれしかったですね」
それでも、高校1年生のとき、年下の選手に激しく追い上げられ、一度だけ引退を申し出たことがある。
「先生、もう私は限界やと思います。もうやめます」
返ってきた言葉は想像を超えていた。
「あんたの限界は、私が決める」
自分で諦めて逃げてはいけないと諭された。恩師のこの言葉は、その後、二村さんの生きる指針になる──。
間もなく二村さんはAチームに上がり、日本代表選手に選出される。チーム競技のメンバーとしてパンパシフィック大会に出場。2大会連続で3位になった。