新婚生活と暗黒のパン屋修業
「優秀な学生をとったので、残念だけど君は無理だな」
会社の採用面接で、格さんに放たれたのは驚きのひと言だった。その優秀な学生こそが麻里子さんだ。結局、大学のサークル活動の経験を活かし、会社が主催する若者向けの農業振興イベントでも多くの学生を集めた手腕を買われ、格さんも無事に就職。
「そのイベントでマリと一緒に司会をしたとき、こっちはノリでいいじゃんみたいな態度でいたら、向こうは何時何分に何を話すみたいな進行表をきちんと作ってきたんです。真逆ですよね。だけど、話すうちに共通項が多いこともわかってきました。自然が好きで、お互い社会に対する怒りみたいなものも持っていて」
東京生まれの麻里子さんも、いつか家族でできる何かを生業にしながら田舎で暮らしたいというビジョンを昔から持っていた。
ふたりの距離は徐々に縮まっていったが、正義感の強い格さんには社会に出て初めての洗礼が待っていた。産地偽装などの不正がどうしても許せず上司にたてつき、社内で孤立していったのだ。
「パンクスって見た目は怖いけれど、中身はキレイなやつばかりなんです。パンクの世界にこんな悪いやつはいなかったのに……と思って、当時は本当にイヤでしたね」
過度のストレスから、突然、鼻血を出すなどの体調不良が続く。そんなある日、格さんの夢に祖父が現れ、「おまえはパン屋をやりなさい」と告げた。パンの作り方など何ひとつ知らなかったが、その道があったかと腹を決めた。麻里子さんが当時を振り返る。
「学生時代はサークルのトップで仕切っていた人が社会に出て現実に触れ、撃沈。でも、この年になって会社を辞めたら俺の人生どうなるんだろう?とかなり滅入っていましたね。この人が元気になるんだったら何でもいいと思って、“パン屋さんいいじゃん。やりたいことやりなよ”って」
会社を辞め、同棲を始めたふたりは人生の舵を大きく切った。しかし、最初の数か月は地獄だったと口をそろえる。
「まずは修業だと、朝5時から17時までのパン屋で勤め始めたんです。ところが、初日に“明日から2時に来て”と言われ、17時になっても帰れない日々がしばらく続きました。休憩時間もなく、作業をしながら持参のおにぎりを食べるだけ。いま思えば、段取りが悪くて仕事ができない自分のせいなんですけどね」
甘い新婚生活とは程遠い日々。その後、自家製天然酵母を使ったパン屋で学ぶ機会を得たが、シェフが体調を崩してあえなく閉店。
生活の安定も考えて、フランチャイズのパン屋に勤めたこともある。店長を任されたが、製造工程がオートメーション化されており、毎日同じ時間に同じパンを焼く日々。
「生地だけ作ったら、あんこなどの副材料は袋を開けて詰めるだけ。分業の一部を担っているだけで、全く面白くない。それで、やはり自分は天然酵母のパンでいこうと。飽きない生き方をするのは、すごく大事だと思いましたね」
麻里子さんから見て、「パン修業の中では、そのころがいちばん病んでいた」という。
4軒目に勤めた『ルヴァン』は、天然酵母パンの草分け的存在。常に生地が変化するため失敗もあったが、仕事が楽しくて仕方なかった。しかし、2年で辞めようと決めていた。いよいよ自分たちの店を持つためだ。その間、徹底的に努力して、パンに関するあらゆる知識を身につけた。4軒にわたるパン屋修業は5年に及ぼうとしていた。