「程よい距離」が長続きの秘訣
「とにかく売り上げを伸ばさんと」
再婚するまでの平野さんは、必死で数字を追いかけていた。スタッフ個々に生活があり、その生計を担っているのだからという思いもあった。しかし、起業家が書いた本を読むうち、ある女性経営者の「数値化できないものも大事」という記述がふと目に飛び込んできた。
「接客の上手さや、ケーキをキレイにカットする技術は数字に表れません。だけど、その子たちがいるから、お客様にとってまた来たいと思えるお店になっているわけで。やっぱり人が大事なんやと改めて気づいてからは、前よりみんなに声をかける機会が多くなったかな」
人が財産というだけあり、『松之助』にはもともとお菓子教室に通っていた生徒だったという長い付き合いのスタッフが多い。代官山店に勤めて7年目という小田桐道代さん(49)も、そのひとり。
「先生のレッスンを受けていたころ、うまくできなくてみんなの前で檄を飛ばされていたAさんという方がいたんですね。
それが何度か続いて、ある日先生が“私はよかれと思って言っているけれど、あなたを傷つけているのであればこれ以上何も言いません。あなたはどうしたいですか?”と質問されたんです。私は先生のその熱意と優しさと正直さが大好きで」
何をするにしても手を抜かず、失敗しても引きずらない。そんな平野さんを慕うスタッフは多い。
娘の裕季子さんは言う。
「生徒さんは母からエネルギーをもらっているのかもしれませんが、母も“若い世代の方からパワーをもらっているのよね”と言っていました」
前述の編集者である本村さんも同じく、平野さんからパワーをもらっているという。
「レシピ本の撮影のときなども、ご自分の手が空いたら率先して洗い物をして、私が立っていたら椅子をすすめてくださって、常に周りに気を配ってらっしゃる。『松之助』のスタッフのみなさんもそんな方ばかり。
先生の一歩踏み込む力もすごいですよ。気になる人がいたら有名・無名にかかわらずすぐにお手紙やインスタのDMからご連絡するんです。そして、どんなに相手が有名な方でも“私なんて……”と卑下することなく堂々としている。それが気持ちいいんです」
気遣い上手で、好奇心に忠実。バイタリティーの塊のような平野さんだが、ニューヨークでは、イーゴさんの好きな釣りやスキーを共に楽しむ穏やかな日々だという。
「主人は釣りに行って大物が釣れると、満面の笑みを浮かべて持って帰ってくるんです。そのときの感触や手ごたえについて事細かに話してくれるので、こちらまで感動が伝わってくる。それを捌いて、3日ぐらいかけて食べるんです。些細なことなんですけど、1匹の魚で何日も幸せが続く。そういう感性が芽生えたのは彼のおかげです」
実は、平野さんは能装束の織元の家の生まれ。高価なものにはそれだけの意味と価値があると考える平野さんと物質的な欲が薄いイーゴさん。異なる価値観から議論になることも多いが、それでも関係をうまく続けていけるコツがあるという。
「私は靴が大好きなのですが、主人は900円のスニーカーでいい人。高いものは縫製がいいでしょ?と言っても、高いものが必ずしもいいものではないでしょ?と返ってきたりするんです。
まあ、人の価値観も幸せも人それぞれ。それでケンカしても意味がないから、そんなときは『チェンジ、サブジェクトしましょう』と言っています。それも、関係を構築していくうえで大切なことかなと思いますね」
実り多き2拠点生活を送る今、この先も元気で年を重ねていくことが希望だという平野さん。
「先日、テレビで70代の方の事件を取り上げていて、見出しに“高齢者”と書いてあったんですよ。70代は世間では高齢者なのか……と、もうびっくり!初めて認識しました。でも、主治医の先生は“年齢は見た目ですからね”とおっしゃっていましたし、私は、60歳から年齢を数えないことにしています。
年々歳々、どこもかしこもガタがきてしまって、もうグラビテーション(重力)には逆らえませんけどね(笑)」
取材後、人数分のコーヒーカップをサッと下げ、「これで大丈夫かな?では、私は先に失礼させていただきますね」と去っていった平野さんの足取りは、重力を振り切ったかのように軽やかだった。
〈取材・文/山脇麻生〉