兄と二人三脚で流派を守る
初世が病に倒れ、帰らぬ人となったのは、'09年3月27日。爽子が訃報にふれたのは、中学3年への進級を目前に控えた、14歳のときのことだった。
「生前、祖母とふたりきりで会うことはあまりありませんでした。お弟子さんたちに囲まれていて、いつも大勢の人がいたことを覚えています。それでも、軽井沢の別荘で静養するときは、一緒にパンを作ったり、ご飯の準備をしたり、折り紙をしたり、兄と一緒に遊んだ時間もありました。稽古場にしても、とにかく人が多くて、祖母はみんなのためにご飯を作るんです。戦争を経験していることも影響しているのか“食べられるぶんはたくさん食べなさい”と言っていました。料理が好きで、いっぱいご飯を作ってくれました。
猿翁さんには、独特の雰囲気があります。舞台上で飛んだり跳ねたりして、空中を漂っているような感じがする不思議な人。兄とチャンバラごっこをすると、迫真の演技で負けてくれるような優しい人でもあります」
初世による直接指導を受ける機会は、さほどなかった。ベテランの弟子たちが初世からの教えを伝える。伝え聞いた紫の舞踊観を断片的に取り込んでいくことは、爽子にとって孤軍奮闘の作業だった。
「たった1人の師匠からのマンツーマン指導でなく、初世に学んだお弟子さんたちの捉え方をいろんな角度から教えてもらって、そこから初世の“紫像”を自分でイメージしながらできあがったような気がします」
爽子が三代目紫を受け継いだ際、兄の藤間貴彦も師範『初代・藤間翔』を襲名した。若い家元は、3歳上の兄の力を借りて二人三脚で流派を守っている。翔は、爽子にとって気を許せるもっとも身近な存在であり、仲間でありながらライバルでもあると語る。プライベートでも、時々食事に出かけるほど仲がいい。翔が言う。
「とはいえ、いろいろ言い合いになることはありますけど(笑)。ケンカになったとしても、たいてい妹が勝ちますね。もちろん、基本的に仲はいいと思います。踊りに関して言っても、やっぱり誰よりも息が合うのは妹です。
これから家元として背負うものは計り知れないくらい大きいと思いますが、僕は妹と流派を支える側として、盛り上げていきたい」