エスカレーター式から別の学校へ
総務省が発表した平成30年('18年)度版の『情報通信白書』によると、'08年をピークに日本国内は人口減少の一途をたどっている。
戦後の復興により中間層の生活水準が向上し、ピアノや書道の習い事が一般家庭に普及していく。華道や日本舞踊は明治以降から発展を遂げていたが、昨今の人口減少は大きな痛手だ。伝統的な文化資本の源流にとって、人口減少問題は対岸の火事ではない。さらには晩婚化や正規雇用率の低空飛行も追い打ちとなり、“踊り手”の獲得も、分母のあり方次第で存続の方法を変えていかなければならない。
令和の時代の家元は、きわめてアクチュアルな課題に直面している。
「日本舞踊は、プロとアマチュアの境界線が曖昧なんです。名取になってお名前をもらって、さらに師範になってからお弟子さんに教えることができるようになるんですけど、先生のお仕事と、上演して入場料をいただくプレーヤーとしてのお仕事は少し違いますよね。
お弟子さんにはさまざまな人がいます。別の仕事を持って、趣味として続ける人もいれば、師範になりたい人もいる。もちろん、流派にとって、運営を続けていくにはどちらも大切。“競技人口”を増やすのと、観客を増やすのは、別のテーマです。
今は、日本舞踊の面白さを知っていただけるように、見にきてくださる人を増やしたいという思いが強いです」
自身を「優等生タイプ」と分析する爽子。やわらかい人当たりも、何げなく他人の話に耳を傾けて会話を楽しむ姿も、常にナチュラルだ。どんな相手とでも仲よくできるのは、爽子の人徳によるものでもあるだろう。
それでいて、表現者としての芯の強さもあり、物事に対する柔軟性も持ち合わせている彼女は、周囲からすると「明るい人柄」として認められているし、実際に取材中も終始楽しげに語り、不愉快な態度を見せることはない。飾りけのない雰囲気が、場を和ませる。「しっかり者の優等生」という言葉がぴったりだ。
けれども、多感な年ごろを過ごした中高生時代は、思い悩むことも多々あったという。
「他人から見たら、明るくて普通の子だったと思います。悩んでいることをあまり外に見せないタイプかもしれません。無理をしているわけじゃないけど、だいたいのことは自分で解決しちゃう。
ただ、根が内弁慶なので、家族にはワーワーと言いたいことを言っています。優等生タイプでちゃんと勉強するんですけど、唐突な行動をとって周囲を驚かせてしまうんです」
爽子が通学していた都内の私立小中学校は、高校、大学までエスカレーターで進学可能な名門一貫校だった。成績も優秀だった彼女にとっては、そのまま高校に進むのが既定路線だったが、優等生はちょっとした“路線外の将来”を思い描く。別の高校への受験を決めたのだ。
家族の想像とは異なる道。初世紫が亡くなり、自分が後継者として位置づけられていたことも、少なからず関係している。
同級生たちが猛勉強している間、「自分はどのみち舞踊を続けるしかないんだ」という思いが頭をもたげ、人生のルートがすべて定められてしまったかのように思えた。すると、別の道を歩いてみたくなった。どうやら爽子は、敷かれたレールと異なる道筋の存在を知ると、そこに舵を切ってみたくなるようだ。
系列の高校でなく、都内の私立高校に入学した。
「中学から高校の間も日本舞踊は続けていました。だけど自分は、本当に舞踊が好きなのか、わからなくなった時期でしたね。
お弟子さんたちの中には、ほかの仕事をやりながら、踊りが大好きで習っている人もたくさんいました」
誰だって、今まで歩いた道とは別の人生を思い浮かべることがあるものだ。この両親のもとに生まれなかったら。きょうだいがいなかったら。別の国で育っていたら。性認識が異なっていたら……。
いずれにせよ、自分の意思では選べないことばかりで、思いどおりには運ばない。なのに、やたらと考える。キリがないことなのは承知しつつ、人はいたずらに想像をたくましくする。
恵まれた家庭環境も、本人の努力も、他人はそんな縦軸と横軸を無視して一方的に評価する。“第三者の座標軸”によって、自己評価がゆがむことだってある。だから、私たちは非現実的な想像を働かせ、できるだけ傷つかないよう、自身のコンプレックスをやわらげようとするのだ。
「私がもし、別の家に生まれていたら、こんなに日本舞踊を好きでいられるのか、悩んだことがありました。それでも、なんだかんだ舞踊は続けていたんですよね。本当に嫌いになったということではないと思います」