施設で育ち、暴走族総長へ

 1976年10月6日、栃木県で2人兄弟の長男として生まれる。父は腕のいい板前だったが、酒を飲むと母親と加藤さんに暴力を振るい、放蕩の末、女性と借金を作った。

「小さいときは苦しい思い出しか記憶にないですね。母を殴る父親への憎しみが強かった。さぞかし母はつらかったろうと思います。その矛先が自分に向いて、少しでも母が助かればいいと思っていました」

 小学校に上がると、母親はホテルのフロントで日中働き、夜はホテルのクラブで働くようになった。忙しい母親に甘えることができず、愛情に飢えていたという。真夏の昼下がり、弟と母親をはさんで、寝そべっていたときの記憶が蘇る。

「寝息を立てている母に腕枕してほしい、抱っこしてほしいなと思った覚えがあります。近づきたいけど恥ずかしくてできなかった、そんな思いでした。こんな初老の俺が言うのもおかしいんですけどね」

 そうおどけながら、一瞬しんみりとした表情を覗かせた。

暴走族をしていた当時の加藤さん
暴走族をしていた当時の加藤さん
【写真】暴走族時代の加藤秀視さん

 小学校2年生になると、母親と加藤さんに対する父親の暴力がますますひどくなり、養護施設に預けられた。はじめは弟も一緒に行く予定だったが、加藤さんは幼い弟が不憫で、「一緒に来たら邪魔だ」と言い張り、弟は祖母と家にいられるようにした。

 施設では消灯時間になると、布団が敷き詰められた広い和室のあちこちから、親の迎えを待つ子どものすすり泣く声が聞こえてきたという。

「夜の託児施設で一緒の仲間は、放課後の遊び仲間になりました。小2のころからタバコ屋でくすねたタバコを一緒に吸ったりしてましたね」

 中学に上がるころ、両親は離婚。たまり場でシンナーを吸い、毎晩夜遊びをするようになる。3年のときに先輩に誘われて暴走族に入った。その後、傷害、恐喝と非行をエスカレートさせていく。

 高校を4か月で中退後、北関東を中心とした暴走族の総長になった。同時に裏社会での駒を進めていく。パチンコの偽造カードで得た玉を換金し、シンナーを夜の街で売りさばいた。上納金として、暴力団に還元するためだ。

「育った環境が施設だったんで、周りを見たらヤクザしかいなかったんですね。家でも施設でも虐待されて褒められたことがなかったんで、悪いことをしてすごいねって褒められたとき、初めて認められた気がして、ここが自分の居場所だと思ってしまったんです。裏社会は上下関係が厳しくて、親分に対するコミットは凄まじいものでした。そういうのも自分の中で響いたんです」

 武闘派と呼ばれた親分を守るために、ボクシングや空手など格闘技はほとんど身に付けた。親分に仕え、暴力で権力をつかみ、ついてきた仲間たちといい生活を送ること、それが自分の目的で、その先にしか幸せはないと信じてしまったという。

 20歳を過ぎたころ、栃木県の地元だけでなく、歌舞伎町でも幅を利かせるようになっていた。覚醒剤と暴走族同士の抗争に明け暮れ、2回逮捕されている。

「21歳で2度目の留置所送りにされたとき、今のまま生きていたら、必ず刑務所を出たり入ったりするのを繰り返すことになるだろうと思いました。自分の仲間も同じ道を進んでしまう……そう思ったら、それまできちんと働いた経験はありませんでしたが、出所したら仲間と仕事を始めようと思ったんです」