極端なことを言えば、どんな仕事に就くべきか、どんな友だちと付き合うべきか、学歴はどうすべきかも、その人の健康につながる医療の問題としてとらえられるような風潮が生まれたのです。その人が精神的に満たされるか、幸せに生きられるかという生きる価値にまでつながると解釈されるようになりました。
ここで出てくる問題として、健康を保てるかどうかで、その人の人格の評価にまで関係してくるようになったということ。自分自身の健康を把握できずに、軽率な生活を送っている人は、「怠惰である」と軽蔑の対象になる側面が出てきたのです。
さらに言えば、「健康は誰もが追求すべき、支配的な価値で、そのほかのすべての価値を左右する」という考え方まで飛び出す結果になりました。つまり、健康を維持できない人は、そのほかの分野でどんなに立派であっても“低評価”の烙印を押されてしまうというわけです。
身近な問題に置き換えれば、太っている人は、その人がどんなに頑張っていても、太っていることは健康に良くないことであり、その人は自己管理のできないダメな人と捉えられるわけです。
クロフォード氏は“健康の定義”も変わってきたと言います。健康は現在の問題にとどまらず、「将来の病気のリスク」まで含めた問題と捉えられるようになったのです。
偏見の問題をどう考える
そんな中で非難の対象になりやすいのが喫煙文化。フランスの研究グループによると、喫煙は科学的な研究が進むほどに、偏見を受けやすい行動になっていると述べています。2010年に3091人に電話調査をしたところ、喫煙の行動に「偏見」がつきまとっている実態が確認されました。喫煙するだけで、その人を色眼鏡で見るというのです。例えば、非喫煙者であるフランス人は「喫煙者とはデートをしない」「子どものシッターとして雇うことはない」といった考えを持っていました。
さらに、喫煙者を強く非難して、社会的な関係を拒否するというグループが存在していることも電話調査から判明しました。こうした偏見を持ちやすい人というのは特徴もあって、年を取っている人、たばこもお酒もやらない人など。健康志向自体は良いことかも知れませんが、こうした自分自身の価値観を他人に押しつけるばかりではなく、偏見につながると過度と言えるかも知れません。
ヘルシズムの考え方では「道徳化」と表現しているのですが、喫煙者が他人に迷惑を変えないように心掛けていても、それでも喫煙を非難され続けられるとしたらどうでしょう。
冒頭のように、厚生労働省の説明からも読み取れるのですが、たばこと健康についての情報提供は怠りなくして健康の大切さを理解してもらうのはよいとしても、最終的にはたばこは本人の嗜好品であることは軽視しない方がよいのかもしれません。本人が選択してたばこを吸うか吸わないかは決めることはできるのです。確かに健康を思いやるのはよいことですが、それが偏見や差別につながるとしたら話は別でしょう。