論戦でボコボコにした先生から…
翌年、大学でそうした研究をやらないかと声をかけられ、研究と臨床を始めた。
「あなたみたいな生意気な若手がどうしても必要なんだ」
日本で初めて自閉症児に行動療法を行った小林重雄先生が声をかけてくれたのだ。
奥田さんは学生のころから学会で大御所に論戦を挑むことも度々。小林先生のことも「ボコボコに批判した」ので、印象に残っていたらしい。
ところが働き始めて数年後、大学の不正が発覚する。小林先生はそれを指摘したが、スタッフはみんな知らぬふり。いちばん若い奥田さんだけが先生に同調すると、大学側からすさまじいいじめが始まる─。
「僕の研究室は取られるわ、海外特別研究員の応募を勝手に取り下げられるわ、めちゃくちゃですよ。最高裁まで争って勝ちましたけど、すごいストレスで、髪がごそっと抜けてね。睡眠薬を飲んでも寝られないし。身体が蝕まれていくのはわかるけど、保身に走るほうがよっぽどしんどいので、だったら退職して闘おうと」
助手を5年で辞めた後、愛知県にある大学に准教授として採用され、7年働いた。国際学会に招かれて発表するなど、ますます多忙になる中、出張カウンセリングも継続。その様子がテレビなどで紹介されるとさらに依頼が殺到し、休みのない日々が続いた。
大学を退職し、2012年に西軽井沢に引っ越した。日本初の行動分析学を用いたインクルーシブ教育を行う幼稚園設立を目指し、5000坪の土地をローンで購入。私財を投じて園舎を建て、幼稚園に寄付した。1年目の運営資金として母の章子さんもなけなしの貯金を寄付してくれた。だが、それでも運営資金が届かず、当面の生活費に残しておいたお金もつぎ込むことに。
「40歳過ぎて、自分の貯金通帳の残高が50万円を切って、ちょっと背筋が久しぶりに寒くなりましたね(笑)。まあ、でもこれが僕なので。怖いもの知らず、無鉄砲やなと子どものころから言われていて、そこは変わらないですね」
奥田さんは金勘定が苦手だ。見かねた妹の聖子さん(42)が事務長になり、経理面を担当してくれている。
障がいのある子とない子が共に学ぶインクルーシブ教育を取り入れた狙いを、奥田さんはこう説明する。
「定型発達の子の親御さんは、“障がい児と一緒だと勉強が遅れない?”と心配する人もいるけど、すべての子どもに個別のプログラムを提供しています。できる子はどんどん次のレベルの課題をやってもらい、暴れる子は個別対応して落ち着かせる。でも、遊びや行事など工夫でできることは一緒にやる。いろんな子と過ごすことで、定型発達の子も問題解決能力がすごく育つんです。子どもによっては園生活の中で小学校の教科書を使うこともあるんですよ」
奥田さんの考えに共鳴し、定型発達の娘を通わせている母親は、幼稚園で日々貴重な体験をしていると話す。
例えば、泣いている友達への声がけ。これまでは「どうしたの?」とすぐ声をかけなさいと教えてきた。だが、幼稚園で泣いている子に娘が声をかけようとしたら、先生に「あの子は今、すごく頑張っているから、もう少し後で声をかけてあげて」と止められたのだという。
「そう言われたら4歳の子どもでも、相手の頑張りを尊重するということがわかるんですね。いい意味で距離をとって見ていると、あ、そろそろ声をかけてみようかなと、先生たちに教わらなくてもできるようになる。そうやって、いろいろ身に付けていくんだと思いました」
運動会で徒競走をする際、自発的に竹馬に乗って走る子もいた。途中で転んでしまい、ゆっくり走る知的障がい児に負けてしまったが、誇らしげだったと奥田さんもうれしそうだ。
「その子はハンディをつけるなんて気持ちはなかったでしょうが、教員がこうすればみんなで楽しめると工夫しているのを見て、学んだのでしょうね。ちっちゃいときからそういう経験をたくさんしていたら、対人関係で問題に直面したときも、諦める以外のいろんなカードを選べるようになると思いますよ」