“鬼の蜷川” “波平”ビッグな2人に導かれ

「三ツ矢君の声はオペラ向きだね」。テレビの、のど自慢番組で優勝した10歳の三ツ矢少年に、先生はそう言った。

「オペラって何?って聞いたら、歌いながらお芝居をすることだと。じゃあ芝居を勉強しようと地元名古屋の児童劇団に入ったんです。そして 12歳のとき、NHKの少年ドラマのオーディションを受けたら、合格しちゃって」

愛知県豊橋市出身。小学生時代は合唱部に所属し、出場した子どもののど自慢番組『どんぐり音楽会』で優勝する
愛知県豊橋市出身。小学生時代は合唱部に所属し、出場した子どもののど自慢番組『どんぐり音楽会』で優勝する
【写真】とんとん拍子で役者の道に進んだ少年時代

『海からきた平太』で主役デビュー。中学3年生からは『中学生群像』(後の『中学生日記』)の生徒役でレギュラー出演する。当時、中学1年生役で出演していた女優の戸田恵子さんは、こう証言。

三ツ矢さんいわく“腐れ縁”と言うほど家族のような付き合いがある戸田恵子さん
三ツ矢さんいわく“腐れ縁”と言うほど家族のような付き合いがある戸田恵子さん

「3年生役には竹下景子さんもいらして、生徒役の中でもおふたりは人気がありました。私は学年が違うので接する機会は少なかったけれど、三ツ矢さんは当時から、いろんなことにアンテナを張って物知りで、頭がいいお兄さんという印象があります」

 とんとん拍子で役者の道に進んだ三ツ矢少年。だが、成長するにつれ、挫折を味わう。

17、18歳のころからオーディションに受からなくなったんです。僕は背が低いでしょ。子役としてはいいけれど、大人の男優としてはマイナス要素。相手役の女優さんのほうが背が高い場合もあるので」

 ただ、そこで落ち込むことなく、新たな道を考える。

「年齢的にもう背は伸びないだろうと思って。役者に固執するのではなく、もともと興味があった裏方の仕事、演出や脚本を学ぼうと東京の専門学校に進みました

 ここでまた壁にぶつかる。

「芝居の脚本って自分の年齢なりのテーマや問題意識を持たないと書けないんです。僕は仕事をしていたから高校生活の中で濃密な人間関係に接する機会が少なかった。これではいけないと思い、20歳のとき大学に入学しました

 同時期に、知り合いの監督の紹介で、“鬼の蜷川”と呼ばれた伝説の演出家、蜷川幸雄さんの芸能事務所に入り、『王女メディア』の美少年役で舞台にも立った。

「僕は特に集中的にダメ出しされ、蜷川さんによく怒鳴られました。でも根は優しい人。『おまえに言っていることは、みんなに言っていることだから、耐えてくれ』と。そう言われていたのでまったくつらくなかった。蜷川さんのところで、舞台を一から作り上げる作業を間近で見て学んだことが、後に自分で劇団をつくるときの礎になっていると思いますね」

 さらに、知り合いのプロデューサーから、人形劇の“声”の仕事を紹介され、初挑戦。そこで出会ったのが『サザエさん』の波平役で知られる声優界の重鎮、永井一郎さんだ。

「人形劇の最終日に打ち上げがあったのですが、僕は参加するつもりはなく、その日はバイトをしていたんです。でもバイト先のサンドイッチ店の店長が『お酒の席も仕事の一部、大人の社会では大切だから行っておいで』と背中を押してくださって。遅れて会場に着くと、永井さんの隣の席が空いていたので座ったら、『きみ、面白い声しているね。明日オーディションがあるから、受けてみなさい』と」

 それは、アニメ『コン・バトラーV』のオーディションだった。結果は主役で合格。運命に導かれるように、声優・三ツ矢雄二が誕生した。

 が、役者経験は豊富でも、“声”で芝居をするのは勝手が違う。

愛知県豊橋市出身。小学生時代は合唱部に所属し、出場した子どもののど自慢番組『どんぐり音楽会』で優勝する
愛知県豊橋市出身。小学生時代は合唱部に所属し、出場した子どもののど自慢番組『どんぐり音楽会』で優勝する

声優界の大御所、富田耕生さん野沢雅子さんはじめ、周りはベテランの方ばかり。僕ひとり新人で、NGを連発。“コン・バトラーV!”という決めゼリフを50回以上録り直したことも。毎朝、公園で“コン・バトラーV!”と叫んで練習していましたね。

 共演の皆さんにもいろいろ教わりました。富田さんは厳しく、『ちゃんと絵を見ろ!台本ばかり見るな』と怒鳴られたりしました。

 野沢さんは、家が同じ方向だからと車で送ってくれて、車中で『絵がどう動いているかで身体の使い方が変わるでしょ。それによってしゃべり方も変わるのよ』と、富田さんのおっしゃったことを、わかりやすく解説してくださって。おふたりにはとても感謝しています」

 これを皮切りにアニメの仕事が次々に舞い込む。アニメブームもあり、週にレギュラー11本を抱え、アイドル声優としてレコードも出す。だが、27歳のとき、仕事をすべて降りて、ニューヨークに旅立つ。

「気がついたら、声優として売れっ子になっていた。そこでハタと立ち止まって自問自答したんです。このままでいいのか?僕は何のために東京に出てきたんだっけ?そうだ、舞台やものづくりがやりたかったんだ、と。原点に返って舞台に気持ちが向いたんですね。舞台の中でもミュージカルが好きだったから、本場ブロードウェイに行こう!と。1か月ニューヨークに滞在し、30本以上の作品を見まくりました」