恩師からの“襷”を受け継ぎ、再び走り出した瀬古は'88年のソウル五輪に挑むことになるのだが……。
「代表選考会となっていたレースを欠場したのに選ばれたことで、“瀬古選手に甘いんじゃないか”って、世間からはかなり厳しい目を向けられました。練習していても、“おまえは断るべきだ”というヤジが飛んできて、カミソリの入った脅迫状が届いたこともありましたね」
長男との別れを経験
結果的にソウル五輪では9位に終わり、現役を退く決意を固めたのだった。私生活では4人の子どもに恵まれたが、'21年には長男の昴さんが、血液がんのため34歳の若さでこの世を去った。
「闘病中の9年間は本人にとっても、家族にとっても長かったですが、その中でも暗くならないように、努めて家族全員が明るくしていましたね。息子の入院中にお見舞いに行ったらギャグを言ったり、コロナ禍になってからは家で一緒に過ごす時間が増えて、毎日マッサージをしていました。やれることは全部やり尽くした感があります」
“3度”の五輪で挫折を味わい、長男との別れを経験した自らの人生について、瀬古は、
「振り返ってみると、うまくいかなかったことのほうが多いかな。いいことがあると絶対に反対のこともあって、そこを乗り越えていけるかどうか。ロス五輪で負けて、そこでやめていたら普通のマラソン選手だったけど、もうひとつ頑張ろうって思う気持ちが私にはあったから、今の自分があるとつくづく感じます」
現在は正月の箱根駅伝の解説者を務め、日本陸上競技連盟の副会長として選手をサポートする瀬古。次の目標としているのはやはりオリンピックで、44年越しの雪辱を果たすべく情熱を燃やしている。
「来年にはパリ、その次はロサンゼルスで開催されます。選手として悔しい思いをしたロスで、今度はサポート側として日本の選手が結果を残す姿を見たいなと。私は、“ロスの敵はロスで討つ”と決めています。リベンジを目標にして、日本のマラソン界の発展に貢献したいですね」