曲芸師の修業中に見つけた夢とは

幼少期に会得した曲芸。芸能人隠し芸大会などでジャグリングを披露したが、「隠し芸じゃなくてプロだろう」という声も上がったとか
幼少期に会得した曲芸。芸能人隠し芸大会などでジャグリングを披露したが、「隠し芸じゃなくてプロだろう」という声も上がったとか
【写真】演奏するビートルズの4人を見上げる尾藤と内田裕也さん

 もしもプレスリーの歌に出合っていなかったら?「いまも曲芸師をやっていたかもしれないね」と尾藤は言う。

 '43年、台東区御徒町で尾藤は生まれた。7人家族。父は百面相の芸人、母も義太夫の下座で三味線を弾いていた。ひと回り年上の姉と、3人の兄。功男は末っ子。

 3歳のときに他界した父の記憶はない。父亡き後、芸人になった長男と母が舞台で稼いだ。が、その母も功男が小学4年のときに病に倒れた。

「虫の知らせでしょうかね、朝、学校へ行くとき、寝ていたおふくろが“功男、ちゃんと姉ちゃんの言うことを聞くんだよ”と。それが最後に聞いたおふくろの言葉ですよ」

 学校から戻ると、母の顔には白い布が掛けられていた。

「枕元に座っていても、実感がなくて、泣けなかった。通夜になって、近所の人たちが“功ちゃんがかわいそう”って話しているのを聞いて、ここは泣かなきゃいけない場面だと思って、はじめて泣きました。いやらしい話ですけれども、まわりの期待に応えようとする気持ちが、そのころからあったのかな」

 戦後の貧しい時代。両親を失った生活は苦しかった。小5のとき、家賃の安い家を探して一家は荒川区日暮里へ引っ越し。さらに、父の友人だった芸人に三男を弟子入りさせる話が持ち込まれた。

「口減らしですよ。そのときにね、“たーちゃん(三男)がイヤだって言うからオレが行く”って、僕が自分から手を挙げたんです」

立て物というバランス芸、五階茶碗を練習する尾藤少年。初期に覚える基本的な技だという
立て物というバランス芸、五階茶碗を練習する尾藤少年。初期に覚える基本的な技だという

 小6になってすぐに弟子入り。5年奉公プラス1年の御礼奉公が弟子のしきたり。師匠の鏡味小鉄は神事芸能の太神楽の曲芸師。傘、鞠、撥、茶碗、皿、ナイフなどの道具を、立てたり、回したり、積んだり、投げたり……。自在に操れるようになるには「人一倍努力しなさい」と師匠に教わる。3か月後─。

「今日から鏡味鉄太郎だよ」

 高座名をもらい、師匠の後見人(補佐役)として紋付き袴姿で初舞台に上がった。

「師匠は“土瓶の小鉄”と呼ばれていて、口にくわえた撥や匕首の上に土瓶を乗せる芸が十八番。“すげぇな、このオジサン”って見とれて。最後に師匠と向かい合って皿を投げ合うジャグリングをやったら、僕は落としてばかり。でも、子どもがドジをやる姿がおもしろいと、お客さんは大喜びだった」

 曲芸の仕事先はもっぱら在日米軍の施設。バスやトラックに乗せられて全国各地の米軍キャンプにも行った。

「基地の中は別世界でした。クルマは右側を走っているし、チューインガムやらチョコレートやらくれるし。ガムなんか一度口に入れたら、寝るときだけ出して、一週間は噛んでいました(笑)」

 アメリカ文化の洗礼。その先に、人生を変える“衝撃”との出合いが待っていた。