プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』と出会って
「13歳くらいだったかな。おつかいに行った帰りに、お蕎麦屋さんの奥にあるラジオから聞こえてくる歌に足が止まった。それがプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』だったんですよ」
曲が終わるまで蕎麦屋の店先で聞き入った。わずか2分あまりの時間が曲芸師の鉄太郎に“夢”を与えてくれた。
「お囃子ではなく、プレスリーの『のっぽのサリー』や『監獄ロック』のレコードを流して曲芸をやったんです。上下ストライプの衣装を自分でつくって、“ロカビリー曲芸”と題を付けましてね」
これが米軍施設で大ウケ。客が喜ぶ芸を、師匠も自由にやらせてくれた。そして'60年、アメリカ本土を巡業する『ジャパニーズ・スペクタクラー』という演芸一座が組まれ、鏡味小鉄社中も加わる。約1年に及ぶ北米滞在中に、鉄太郎の夢は膨らんだ。
「マイアミのホテルで見たサミー・デイヴィスJr.のショーに圧倒されたんです。歌や楽器だけでなく、モノマネ、タップダンス、ジャグリングまでやっちゃう。お客さんを飽きさせないプロ意識に影響を受けたんですよ」
歌って踊れるエンターテイナーになりたい─。演芸一座のダンサーからタップを教わり、練習に明け暮れた。1年が過ぎ、帰国。そして、鉄太郎になって6年が過ぎ、師匠に年季明けのあいさつ。
「お世話になりました、今日でやめさせていただきます」
「おまえも晴れて一人前だ」
「いえ、曲芸をやめます」
「そりゃどういう意味だい」
「僕、プレスリーみたいになりたいんです」
「本物の不良になるのか!?」
曲芸師をやめることは「破門」を意味した。大卒初任給が約8000円だった当時、曲芸師のギャラは1ステージ800円前後。1日に2、3ステージの掛け持ちもできた。身につけた技芸で大金は稼げる。その道を捨てて尾藤は鉄太郎から功男に戻った。