スポ根ドラマのような青春時代
乾物屋を営む両親のもと、近藤さんは三姉妹の末っ子として昭和32年に生まれた。
「近所の子を集めて、リレーのチームを作って外を走り回ったり。元気が取り柄のワンパク娘でしたね」
運動が得意で、かけっこはいつも一等賞だった。
「美術学校に進学した姉の影響を受け、絵を描くのも大好きでした。自分では芸術家に向いていると勘違いして(笑)、中学のクラブは美術部を選びました」
ところが、ある日、陸上部員の友達に、「市の競技会に出場するメンバーが足りないから、典子、出てよ」と助っ人を頼まれる。
「ほかの選手は陸上部のユニフォームを着ているのに、私だけ学校の体操着。飛び入りで走り幅跳びに出場したら、いきなり優勝しちゃったんです」
漫画のような痛快エピソードだ。正式に陸上部に入り、芸術家からアスリートに路線変更する。
「大会で好成績を挙げると、学校の朝礼で表彰されるんです。おだてられると木にも山にも登るタイプ(笑)。陸上に打ち込みました」
高校はスポーツエリートが集まる浪商高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)の体育科に特別推薦で入学。
「50人のクラスに女子は10人だけ。モテる? ハハハ……。運動漬けの毎日だから日焼けで顔は真っ黒。色気より食い気で、お小遣いは全部、パンやお弁当など胃に入る物に使っていました。大きな声でしゃべりまくるし。私たち女子が歩いていると、怖がって男子は逃げていきました(笑)」
膝を痛めたため、高校ではバスケットボール部に所属。卒業後は、系列の体育大学に進み、体育教師になるつもりだったが、膝の治療でお世話になった治療師の仕事に興味を持つ。
「将来、何になるか?と考えても、運動少女にはわからないんです。多忙な両親は、いい意味で放任主義。“典子の好きなように”と、アドバイスもない。だから深い考えがあったわけではなく、スポーツ関係の仕事だし、治療して喜んでもらえたらいいな、という気持ちで、当時はまだ数少なかった理学療法士を養成する国立のリハビリテーションの学校を受験しました」
が、不合格……。
「高校時代は、勉強するヒマがあるなら、10キロ走れ!と言われるような環境でしたから(笑)、勉強の仕方も知らない。そんなんで国立の学校に受かるわけないですよね」