不運にも実家が家事に
さらに不運が重なる。実家の乾物屋が火事に遭ったのだ。
「浪人するつもりだったんですが、親に負担をかけたくなかったので、昼間は呉服屋さんで働き、夜学の予備校に通いました。なぜ呉服屋を選んだかというと、成人式の着物を自分で買いたかったから」
たった1年間だが、ここでの経験は一生ものだと言う。「呉服屋のおばあちゃまが私を可愛がってくれて、着物や帯の畳み方から小物の扱い方、日本の習わしに至るまで教えてくださったんです。これは後の引っ越しサービス業ですごく役立ちました。まだ若かった私が、きちんと着物を扱うのを見て、ご年配のお客様は褒めてくださり、信頼を得ることにつながりました」
一方、リハビリテーション学校の受験は、またも不合格。「理学療法士は私にはハードルが高すぎたのでしょう。高校の担任の先生が、“柔道整復師(骨接ぎ)はどうだ? 国家資格があり、開業もできるぞ”と提案してくれたのです。それで昼間は骨接ぎ見習いをして、夜、柔道整復師専門学校に通って、無事、資格を取ることができました」
挫折して方向転換しながらも、明るく前向きに道を切り開いていった若き日の近藤さん。だが、ひとつだけ叶わなかったことがある。
「子どもを1ダース産んで、野球チームを作りたい!って高校生のとき言っていたくらい、子どもが大好きでね」
25歳のとき結婚。「その3年後に妊娠がわかったときは、主人と一緒に大喜びしました」
勤めていた整形外科病院を退職し、母になる準備を整えていた。ところが─。
「ある時期から、おなかの赤ちゃんがすごく蹴るんです。私に似て元気な子なんだろう、と思っていたら……赤ちゃんの身体に異常があったんです」
死産だった。
「担当医の先生が、私の心が傷つかないように気を使ってくれているのがわかってね、悲しいというより、ありがとうという気持ちでした。しばらくたってからですね、涙が出たのは……」