自分がハーフだと17歳まで知らなかった
マリが生まれたのは神奈川県逗子市。2歳で京都市に移り、流しの歌手をしていた父と明るい母に育てられた。母親は父とは再婚で、マリの実の父親は進駐軍の将校として日本に駐留していたスペイン系アメリカ人なのだが、マリは自分がハーフだと17歳になるまで知らなかったそうだ。
「確かに私は髪の色がみんなとは違っていたし、肌も白かったんです。でも、私に疑われないように、母も自分の髪を明るく染めていたから、ずっと自分は周りと同じ日本人だと思ってました(笑)」
マリが幼いころ双子の弟が生まれたが生後間もなく亡くなり、その後は一人娘として大切に育てられた。終戦後のまだ貧しい時代で、共同のトイレ、台所の間借り生活だったが、両親は4歳のころからバレエを習わせてくれた。
「そうしたら幸せなことに、才能を発揮してしまったんです(笑)。回るのでも、すぐできちゃう。親も、これで将来、身を助けられると考えたのか、レッスンの回数がどんどん増えて、週に1日しか休みがない感じでした」
それほど熱心に打ち込んでいたバレエだったが、徐々に気持ちが離れていく。マリが男性舞踊師と組んで重要な役を踊るようになると、女性の先生に焼きもちを焼かれるようになったのだという。
「男の舞踊師さんがうちに遊びに来て、母の作ったごはんを食べて楽しく話しただけで、役を降ろされたことも。たぶん、先生はその舞踊師のことが好きだったんですね。だから、こんな狭い世界は嫌だなと思い始めたんです」
中学生の時に開いた世界への扉
マリにとって学校もあまり居心地のいい場所ではなかった。大勢で遊ぶのは苦手で、友人ができても、なぜか意地悪をされる。
「遠足とかで、お弁当を友人と食べられると思っていたら、無視されて私は行くところがなくなったりして。殴ってきたら殴り返すんだけど、無視だからいちばんキツいんです。中学のときも同じようなことがあって、3人組の友達がいたんですが、いつも私以外の2人でつるんでいて、私は1人だったなーと。だから、学校はあまり好きじゃなかったし、早く、別の大きな世界に行きたいという思いがずっとありましたね」
中学3年生のとき、思わぬところで新たな世界への扉が開く。
京都会館で歌謡ショーがあり、大ファンの布施明が出演すると知ったマリは見に行くことに。京都会館はバレエの発表会で何度も舞台に立っており、スタッフみんなと顔なじみだ。「布施さんのサインが欲しい」と言うと楽屋に入れてもらえた。
廊下をうろうろしていると、見知らぬ男性に声をかけられた。
「君、踊れるって聞いたけど、歌は歌える?」
そのころからマリの美貌は際立っていたのだろう。男性は歌謡ショーを主催する芸能プロダクションのマネージャーで、ひと目見てスカウトしたのだ。
だが、歌には自信のなかったマリは思わず、こう返してしまう。
「私、音痴ですから」
すぐに先生を探して発声法やクラシックまで学んだ。
あるとき鴨川のほとりで大きな声を出して歌っているとカップルにとがめられ、マリはこう言い返した。
「あんたらだけの鴨川ちゃうやろー」
とそれほど歌に熱中していたのだ。
高校2年生で休学し、母と2人で上京する。スカウトされた後は長い休みのたびに、歌の成果を見てもらいに東京に行っていたが、それでは、いつまでたってもデビューできないと思ったからだ。
東京のホテルに滞在しているとき、「変な形で耳に入るとよくないから」と、母から実の父の話を聞かされた。
「ものすごく不思議な感じでしたね。私はちょっと毛色が違うんだとうれしさもあったし、お父ちゃん、本当の父親のように育ててくれて、ありがとうという感謝の気持ちもありました」