就職が決まらず、フリーランスの通訳に
中学3年生で帰国し、私立高校へ進んだ後、東京外国語大学イタリア語学科に進学する。
「外語大の難易度は英語が一番で、次にフランス語、イタリア語という順でした。ロンドン時代に父が何十か国も旅行に連れて行ってくれたんですが、イタリアはすごく印象の強い国で好きでしたし、正直言えば、難易度の順番で選びました(笑)。外語大は言語教育がとても厳しいので、1年生のうちにしゃべれるようにならなきゃいけないんですよ。
だからみっちり勉強して、2年生からは当時、東京・晴海で行われていた展示会でフード・レストラン展のようなイベントの、イタリアコーナーで通訳のアルバイトをしていましたね。英語も得意だったので、英語の通訳や翻訳の仕事も結構していました」
しかし、卒業後の進路は思ったようには決まらなかった。同級生たちが外資系企業、航空会社、高等学校へと就職する中、伊藤さんだけ行き先が決まらなかったのだ。
「結局、フリーランスで通訳をすることにしました」
仕事の幅を広げようと、国家試験である全国通訳案内士試験を受験するも、1年目は不合格─。
「2年かけてやっと合格して、通訳ガイドの資格を取ったんです。それからは外務省の外郭団体や旅行会社とかあちこちに登録して、いろんなお仕事をいただきました。着物を着て、外国人観光客の京都案内をしたり、茶道、生け花などの文化体験のガイドをしたりして。1本請け負うと、調子のいい人間なので、またご指名がくるんですよ」
先輩ガイドから「自分だけチップをたくさんもらおうとしてニコニコしてるのね」などと嫌みを言われたこともあるが、「傷ついたり、凹んだりは、なぜかしませんでしたよ」とケロリと話す。
やがてトヨタ自動車やホンダ、コカ・コーラといった企業の招待客のガイドをするようになり、社内会議の通訳に入るようになる。ビジネス寄りの仕事が増えていくうちに国際会議の同時通訳のスキルもついた。牛肉交渉をはじめとしたトップレベルの国際会議も経験し、ヨルダン国王夫妻が訪日したときは、天皇陛下の同時通訳も担った。
「NHKの出入りの通訳もしていました。スティーヴィー・ワンダーの通訳を担当していたのですが、スティーヴィー、ミッツィーと呼び合う仲で(笑)。スティーヴィーは電話を切った後も、言い忘れたことがあるからと、NHKの代表電話に“ミッツィーはいる?”なんてかけてきたりしました。ちょっととぼけたところもある、素敵な方でしたね」
一方で、同時通訳はとても厳しい世界だったと振り返る。
「3秒間無言でいたら、もう次の仕事はこないですから! 3秒でクビを切られるので、すぐ間を埋めなきゃいけないんですよ。脊髄反射って言ってましたね」
現場ではどんなにか緊張を強いられたのではないかと聞くと、プロらしい答えが返ってきた。
「私はあんまり緊張しないんですよ。中にはガチガチになっちゃう子もいましたけど。リラックスしてないと実力が発揮できませんからね。ですから勉強はすごくしました。自分が理解していないと正しく伝えられませんから、事前リサーチをしっかりやって、リラックスして臨むという」
伊藤さんのそんな完璧な仕事ぶりに、ここでもやっかむ同業者がいたそうだ。
「私が全然疲れずに、クオリティーも下げないで、長時間同時通訳ができるので、“伊藤さんと一緒にしないでほしい”とバケモノ扱い、宇宙人扱いされていましたよ(笑)」