人生の“第2ステップ”医療の道へ─

まさかの40歳で医学部受験。帝京大学医学部に見事合格し、妹と入学式に出席
まさかの40歳で医学部受験。帝京大学医学部に見事合格し、妹と入学式に出席
【写真】来日したヨルダン国王夫妻の通訳も担当した伊藤さん。王妃の隣には当時の皇太子妃、雅子さまの姿も

 40歳で医学部受験をするまで、医師になりたいと思ったことはなかった。志すきっかけとなったのは、通訳の仕事でアメリカにある脳障害児のための研究所をたびたび訪れたことだったという。

「そこには歩けない子や目が見えない子、脳性麻痺の重い症状の子たちもいました。薬や手術という方法ではなく、リハビリテーションや食事指導を受けていて、歩けなかった子が走れるようになったり、目が見えなかった子が見えるようになったりするのを見たんです」

 日本にそのような手法を用いている医師がいないと知り、そうした医療を日本で実現するにはどうしたらいいかと考えはじめる。

「父方のルーツである禅寺でも、私のおばあちゃんが精進料理を振る舞っていて、小さいころから食は健康をつくる大事な土台なんだっていうことを感じていました。またロンドンで通った教会の庭には必ずハーブが植わっていて、住民の病を癒す場でもあったんですね。そうした自然療法的なアプローチをする場所に結構触れていた経験も影響していたと思います。

 通訳の仕事はやりきった思いもあって……。できるだけ自然な形での医療を自分もできたらいいな、障害児を診ることができたらいいなと思うようになっていったんです」

 いろいろ調べた結果、欧米ではハーブやさまざまな自然療法を行う自然療法医の資格「ドクター・オブ・ナチュロパシー」(ND)があることを知る。しかし、その資格を取っても、日本では医療行為ができないこともわかった。

「日本でちゃんと胸を張って医療をやりたいなって。なんか怪しい占い師のおばさんみたいにはなりたくなかったので。子どもたちの食事療法や人々がより健康を増進させるお手伝いをするには、資格がいるんだなって。じゃあ免許を取りにいかなきゃと思って受験しました」

 医学部の受験科目には必ず英語があるが、それは満点が取れた。

「あとは生物と国語を選択しました。通訳で医学系の仕事に携わることも多くて、磨いてきたこともあって、勝負できたかなと思います」

 そして2003年3月、帝京大学医学部に合格する。

学生、仕事、母親の三足のわらじを履いて

通訳としてのスキルを生かしてさまざまな医療のイベントにも出席。写真は'11年、脳障害研究所での同時通訳ブースにて
通訳としてのスキルを生かしてさまざまな医療のイベントにも出席。写真は'11年、脳障害研究所での同時通訳ブースにて

 伊藤さんは26歳のときに通訳の仕事を通して知り合った、当時旅行会社に勤めていた夫と結婚している。結婚後は2人の子どもにも恵まれた。

 家庭と仕事のバランスを取りながら、フリーの通訳としてのキャリアを築いてきたが、医学部を目指すと言ったとき、家族はどんな反応だったのか?

「受験勉強をしていたことは内緒でした。通訳の仕事でいつも勉強をしていたので、不自然には思われなかったんですね」

 合格通知が来たときに、初めて夫に「こんなの来たわ」と打ち明けたという。すると夫からは「だっせぇ」というひと言が。

「それは“勘弁してくれ”という意味合いだったんです。夫の姉が皮膚科医なのですが、サラリーマン家庭にとって、私大の医学部の学費がどんなに負担になるか、両親を見てわかっていたからのようでした。お金は一切迷惑かけないからと言って、本当に一銭も援助してもらいませんでしたよ」

 当時、小学校3年生だった長女は「学校でお友達できるといいね」と、1年生の長男は、「僕の腕でお注射の練習していいよ」と言ってくれたとふり返る。

 学費を捻出するために、3年生までは毎朝、TBSのニュース番組の同時通訳に入り、夜8時からは、厚労省と世界3都市の製薬団体をつなぐ定例会議の通訳に入るというハードスケジュールをこなした。おかげで睡眠時間はいつも3、4時間ほどだったという。

「でも授業中は寝なかったですよ! それは自慢しています」

 近所に住む母のサポートも得て、学生と仕事、母親業を同時進行させた。

「朝のうちにお鍋の用意をしておいたり、料理はするんですけど、家事は手抜きでした。洗濯物は乾燥機付きの洗濯機を使って、いちいち畳んだりしないで、乾燥したら大きな袋に入れておいて、使う人が取っていくというシステムに(笑)」