“応援団”から“白組の歌手”へ
破門されたことが、結果的に才能を開花させた。
「『笑っていいとも!』で、所ジョージさんと田中義剛さんと3人でコーナーを持っていて、それぞれが週のテーマに沿った歌を発表するんです。僕はすごく作り込んでいったつもりなのに、所さんが最後にフワッとやったら、物すごいウケる。
キャラで、この人には勝たれへんもんがあるなと思いました。そんとき29歳ですけど、やっぱり楽曲そのものの完成度を高めて、それで勝負するしかないって」
レコード会社を移籍し、1990年代になるとヒットを連発。タイアップ曲も多く、毎月のようにCDをリリース。
1991年発売の『替え唄メドレー』は自身最大のヒット曲に。
「替え唄は権利関係が大変なんですよ。許可を取らんとアカンですから。200パターンぐらいからOKをいただいた曲をメドレーに並び替えて」
1992年に『NHK紅白歌合戦』に出場。翌年に日本武道館で公演。代表曲『鼻から牛乳』はさまざまなバージョンが作られ、最初のリリースから30年たっても歌い続けている。
「実は、1991年にもNHKから紅白に出てくれって言われたんですよ。でも“応援団”という枠だったから、当時の僕の音楽プロデューサーが嫌ですって断って。それで翌年に『鼻から牛乳』がヒットして、白組の歌手として出たんです。もうじき『鼻から牛乳・令和編』が発表になります」
以前とはコンプライアンスの基準が変わってきていることも実感している。
「こんな時代だからこそ、昔はよかったけど今はダメ、みたいなコンセプトの曲が歌いたいんです。例えば、禁煙が当たり前になってしまいましたが、タバコが出てくる昔の曲なら歌えるとか。『アホが見るブタのケツ』も今だって歌えますよね」