23年ぶりの再会、そして
「元気?」
電話に出たAさんは、まだ独身だった。
「明後日会おう」と彼は言い、2人は23年ぶりに再会したのだった。
それから、ときどき会うようになり、その距離は次第に縮まっていった。
「僕はここ4年くらい家を探していたんだ」とAさんは言った。彼は東京・世田谷近郊の2世帯住宅の2階に住み、1階には母親が住んでいた。
「彼はとても母親を大事にしていて、毎日母親のために薬を下の部屋まで持っていってあげる。“大事にしてね。ちゃんと薬飲むんだよ”と優しく声をかけてあげる。まるでホームドラマを見ているようでした」
彼は長く大企業で働いていたが、ようやく仕事も落ち着いてきて、自然の豊かなところにセカンドハウスをつくりたい、と思っていたのだ。
美里はもともと山梨に別荘を所有していたが、2人で一緒にいろいろと物件を見るようになり、長野県の八ヶ岳のそばにいい土地が見つかり、半分ずつ資金を出し合って別荘を建てた。その当時、『トロールビーズ』は全国の百貨店に9店舗を展開していた。
ゴールデンウイークのある夜、別荘に帰ってきた美里は顔がパンパンに腫れていた。
「どうしたんだい? その顔は」
とAさんが聞く。疲れに疲れていた上に、歯医者が間違った歯を治療してしまったらしいのだ。彼は美里にこう言った。
「君は人前に出る仕事をしてるんだ。こんなになるまで仕事をするなんて……」
そして彼はこう言った。
「2週間だけ待ってくれ。そしたら僕が君の会社に入って手伝うよ」
長年アパレル関係でバリバリ仕事をこなしてきて英語も堪能な彼なら、きっと会社を助けてくれる。美里は「渡りに船」とばかりに彼の申し出を受けることにしたのだった。
事業は成功、3年間で23店舗に発展
デンマークの本社は、売り上げ好調の日本に対して「3年後までに、今の9店舗から23店舗にしてください」というとんでもない要求をしてきた。
「私は絶対、嫌だと思った」
と美里は断ろうと思ったのだが─。隣にいたAさんは「わかりました」とその要求を受け、契約したのだった。
それからの3年、2人はまさに死力を尽くして働いた。そして約束どおり、3年後に『トロールビーズ』は23店舗に拡大。2人で成し遂げた成果だった。
しかし、その成功の陰で美里には大きな不安があった。
それは、商品の「ビーズ」の在庫を抱えているということだった。このことは、2億円近い借金を実質オーナーである美里が背負っていることでもあったからだ。
「もし、自分が倒れたら私が個人保証している分は、娘たちが背負わされてしまう。そのころ、上の子が16歳、下の子が13歳で、それがどうしても嫌だったんですね」
思い切って、デンマークの本社に「辞めたい」と伝えた。しかし、日本の『トロールビーズ』のファンは「岡田美里」のファンでもあった。そこでコンサルとして名前を残すことになったのだが、その3か月後、デンマークの本社は「やはり辞めてください」と言ってきた。美里たちの代わりに運営できる会社が見つかったようだった。そこで、美里たちはすべてから手を引いたのだった。
そんなとき、美里の実の母がパーキンソン病と診断されたのだ。