母娘二人で満州から決死の逃避行

認定士には毅然とした態度を見せた母。かつての母のように
認定士には毅然とした態度を見せた母。かつての母のように
【写真】「痛々しい」番組でライオンに襲われ全治10か月の大ケガを負った松島トモ子

「母の部屋に行くまでにドアが2つあって。母は『要介護4』から『要介護5』とどんどんひどくなっていきましたから、ドアを開けるまでの間に、“ああ、死んでいてくれないかな”と。何度そう思ったかわかりません」

 だが松島が今あるのは、そんな母が命がけで自分を守ってくれたからだった。

 1945年8月15日、太平洋戦争が終結。志奈枝さんは三井物産に勤務していた夫・高橋健さんの仕事の関係で、旧満州の奉天(現・瀋陽)で終戦を迎えた。

 松島はその直前の7月に誕生。父・健さんは同年5月に召集され、行方知れずになっていた。

 ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して同年8月8日には、対日参戦。翌9日に満州に進駐を始めてからは、志奈枝さんら満州の日本人の毎日は凄惨を極めた。日本への帰還に命懸けになる日本人に、ソ連兵たちは横暴の限りを尽くしたからだ。

「そんな目を覆うばかりの状況の中、母はカーテンで袋を作って私を入れ、その袋を自分の身体の前に回して、さながらカンガルーの親子のような姿で日本に連れて帰ってくれたんです。私を前で抱いたのは、おんぶだと死んでもそれがわからないから」

 母カンガルーの背中には、荷物を詰め込んだリュックサック。そして両手には食料を入れたバケツ。そんな母親に中国の人たちが、「奥さん、赤ちゃんを置いていきなさい! 死んでしまうから!」と声をかける。

「どうせ生きては帰れない。みんな善かれと思って声をかけ、日本人は子どもを置いていったんです。それでも母は私を手放しませんでした」

 引き揚げ船には満足な食料もないし、嗜眠性脳炎が流行。子どもたちはバタバタと亡くなっていった。

「そんな中でも、母は私に精いっぱいの笑顔で接し、耳元で美しい声の子守歌を歌ってくれた。わずか10か月でしたから覚えているわけがないんですけれど、私は覚えていると思っています」

 引き揚げ船の中で生き残った乳飲み子は、松島を含めてわずか2人だけ。

 どれほどケアマネジャーにすすめられても、母の部屋に行くまでにどれほど“死んでいてくれたら……”と思っても、そんな母を、本人の意に反して施設に入れるなど、松島にはできなかった。

帰り着いた日本で映画界にスカウト

姿勢よく、脚も真っすぐ美しい松島はこのころに完成された。子役のトモ子ちゃん時代
姿勢よく、脚も真っすぐ美しい松島はこのころに完成された。子役のトモ子ちゃん時代

 決死の覚悟で日本にたどり着いた母娘を待っていたのは、思いがけない出来事だった。

 当時、映画館では上演前にニュース映画を流していた。3歳の松島がバレエを踊る様子が「小さな豆バレリーナ」と題されて上映。その姿に当時のビッグスター・阪妻こと阪東妻三郎が目を留めた。次回作の子役としてスカウトしたのだ。

 松島がバレエを習っていたのには理由があった。

「旧満州で日本人の女性が避難しているとわかるとソ連兵から暴行を受けかねない。だから窓ガラスに黒い紙を張って、暮らしていました。10か月、日光を浴びられない状態で私は育っていたの。だから、『くる病』っていうんですか、右脚が曲がっていたんです。その脚の矯正のために、バレエを習ったんです」

 そのバレエが、3歳だった少女のその後の人生を決定づけることとなった。

 4歳で阪妻の『獅子の罠』に出演、事件の鍵を握るつぶらな瞳の少女、下條美也子という役名で映画デビューを飾ったのだ。

「タイトルが獅子でしょ。あのころから不思議とライオンと縁があるの(笑)」

 それ以降は、まさにとんとん拍子だった。当時は映画の黄金期。阪妻と並ぶ大スター、アラカンこと嵐寛寿郎の『鞍馬天狗 御用盗異変』(1956年)の杉作を演じれば、同年作の実写版『サザエさん』でワカメちゃんを演じた。

アラカンとの『鞍馬天狗』。やんちゃな杉作は松島の当たり役
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