「社会を見て感じたことを、音楽に昇華する」
沖縄在住の舞台演出家で、宮沢と親交の深い平田大一さんはそんな時期に宮沢と出会っている。'94年に公開された中江裕司監督の映画『パイパティローマ』での共演だった。主人公の女性を、ギターを持った宮沢と横笛を吹く平田さんが、音楽対決をして取り合うというワンシーンの撮影が竹富島で行われた。楽器の相性が悪く、どうしたら音が合うものかと思案していた平田さんに、宮沢はひと言、「あんまり難しいことは考えないでノリでやりましょう」と言い放ち、ぶっつけ本番で一発OKをもらったという。
「かなり尖ってましたね(笑)。『島唄』がヒットしていて、日本を牽引する若きロックスターというイメージでした。ちょっと触れられないくらいのオーラを身にまとっていて、いろんなものに対して壁をつくっているような感じもありました」(平田さん)
その後、宮沢はブラジル音楽にのめり込み、『島唄』ロングヒットの最中、ブラジル北東部の黒人たちのリズムにポエトリーリーディングを乗せた画期的な楽曲『手紙』を発表する。そこには人間の持つ怒り、悲しみ、希望……さまざまな感情が渦巻いており、『島唄』の対極のようで同一線上にある曲ともいえる。
思えば宮沢は、デビュー当時から社会問題を何げなく歌にしていた。例えば'89年に発売された3枚目のシングル『気球に乗って』は天安門事件をモチーフに書かれた楽曲である。
「僕がデビューしたころは、ちょうどバブル期でしたが、とても嫌でしたね。どうせ終わるのになぜこんなに浮かれていられるんだ、と。その刹那的な感じが本当に居心地悪かった。音楽を聴いても日本にはそういうことを発する人がいない。ジョン・レノン、U2、スティングたちは、社会を見て感じたことを曲にしていました。社会を変えることはできなくても、石を投げて音楽に昇華できていた。そういうことを試みている人が好きだったというのもあります」
社会の中で起こったことは常にメモするように曲にしておこうと、宮沢はその後も『TROPICALISM』『ゲバラとエビータのためのタンゴ』など社会風刺的な楽曲をいくつも書いた。これらは今聴いても、まったく古さを感じさせない。
「それは当時、問題に感じて曲にしたことが、何ひとつ解決していないからじゃないですか。複雑な気持ちですけど……」
ブラジルに魅せられ、多国籍メンバーとツアー敢行
'94年、宮沢は初めてブラジルのリオデジャネイロを訪れ、逆境をはね飛ばすように明るくパワフルに生きる人々のエネルギーに圧倒される。さまざまな打楽器を購入し、リズムや音の構築をもとにしながら、日本人が踊れて気持ちよく開放される音楽を目指し、6枚目のアルバム『極東サンバ』を完成させた。
このアルバムに収録されている『風になりたい』はイパネマの海岸でメロディーが浮かび、日本で歌詞を書いた。ブラジルのサンバのリズムに、自分たちが抱いている苛立ちや希望を乗せることで、日本の等身大のサンバが誕生した。
'96年、THE BOOMは初のブラジルツアーを敢行。その後も宮沢は、'98年に全曲ポルトガル語に挑戦したソロアルバム『AFROSICK』を南米のアーティストらと制作し、ブラジルでコンサートを行っている。
「のみ込まれちゃったというか、やらなきゃ気が済まないという感じでした。惹かれるままにまったく知らない世界に飛び込んでいくと出会いがあって、そこで音楽を作る仲間ができるというのが僕のスタイル。それによって次の道が切り開かれる、その連続だった気がします。どこへ行くかはわからないし、戻ってくるホームもない。
でも僕はそんなミュージシャンが好きなんです。坂本龍一さん、加藤登紀子さんのような。そういう先輩すらも通らなかった道を行ってみるんだ!という気持ちだった気がします」
ブラジルでも発売された『AFROSICK』は評判となり、宮沢は国籍もバックグラウンドも違うミュージシャンたちと中南米やヨーロッパを回るツアーを行う。
ブラジルをはじめとする南米各地には、戦前、戦後にかけて国策で多くの日本人が送られ、過酷な労働や病で多くの人が亡くなった歴史がある。にもかかわらず、たった100年で日本人はブラジル社会で、なくてはならない存在になっていた。日本にも数十万の日系ブラジル人が暮らしているが、文化の違いから、あまりにも交流が少ない。宮沢はブラジルでコンサートを行うたびに集まってくれる日系人への感謝、第一回移民で当時98歳だった故・中川トミさんとの出会いによって、'08年、ブラジル移民100周年を祝うコンサートツアーを行う決意をする。共にしたのは、ワールドツアーを回ったときの多国籍なメンバー。「GANGA ZUMBA」と命名し、正式なバンドとなった。